topimage

2013-09

スポンサーサイト - --.--.-- --

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「倍返し」は成功するか? - 2013.09.23 Mon

 久々の大人気ドラマ「半沢直樹」が昨日最終回だった。
意外なラストに不満を残した視聴者は多いと思う。
結局は頭取が黒幕だったわけ??と疑問を残す。

 原作を読んでいないので作者の意図するところはわからないが、
大和田常務の取締役降格の辞令は別として、半沢直樹の出向の辞令はある意味
全うな判断ともいえる・・・と、私は思っています。

 悪を打ちのめし正義が勝つ、というのはセオリーであり見ている側もとても気持ちがいいもの。
水戸黄門、大岡越前、遠山の金さん、忠臣蔵・・・日本の時代劇のほとんどが同様のストーリー。
しかし、それを現在の金融機関や金融庁などといった、複雑な現代社会の仕組みや利権の世界に
当てはめていくと、「正義」というものが難しくなるようにも思います。

 なぜ、私は半沢直樹の出向もやむなしと考えるか?
大和田常務がどんなに悪いやつか?ということは別として、
取締役会の席で、大和田常務の個人の預金や借金などの個人情報を暴露し、頭取が制止するも
それを聞かず、大和田常務を罵倒した上で土下座させる。
ドラマだから見ていて「やれ!やれ!」と誰もが半沢直樹に声援を送る。
しかし、もし現実的に部下が上司に対してこのようなことをして許されるか?答えはNoだろう。

 やられたらやりかえす、倍返し、いや百倍返し、と半沢直樹をここまで動かしたエネルギーの
源は、25年前の大和田常務が父親にとった態度への恨みである。
まあテレビドラマだからネタとして大目にみているが、この怨恨には少々無理があるのではない
だろうか?と思われる。大手企業から個人の会社まで全ての会社の平均寿命は6年といわれている。
あたかも銀行が融資しなかったために会社が潰れたかのような表現だが、倒産する会社の多くは
融資とは関係なく倒産してしまう。へたに多額の融資を受けたうえで破たんすると、被害は下請けや
同業者へも及んで連鎖倒産なんてことにもなりかねない。
銀行が融資を断る、そんなことは当たり前で日常茶飯事。
私も事業を初めて30年以上の間に、銀行に融資を断られたことは何十回とある。
単に断られるだけならまだいい、一度融資すると約束していたものを、土壇場で手のひら返しの
ごとく断られたことも何度もある。新しい事業をする時に、すでに準備に入っていて後には引けない
時に、手のひら返しをされて途方にくれたことは何度もある。
だからといって自殺をしていたのでは命がいくつあっても足りない。

 企業というのは、銀行から融資を受けて救われる場合もあるが、融資に甘んじて怠慢経営に
陥り破綻することもある。恵まれた家庭で育つ子供が立派な強い大人になるとはいえない。
むしろ貧しい家庭で育った子供のほうが、強くて信念のある大人に成長することは多い。
銀行頼みの経営はどのみち破綻が目に見えている。金策をどう乗り切るか?それは経営手腕で
あり、血のにじむような努力と知恵と人格の結果である。
銀行が融資を断るのは当たり前のこと、それを恨みに思うなら銀行員が可哀想すぎる。

 やられたらやり返す、という復讐心のもとに正義は成り立たない、ということを
このドラマが教訓として伝えようとしたのなら、とても共感できる。
頭取は結果的に失脚することもなく半沢直樹によって助けられた。
ドラマの本筋が、頭取を信頼する半沢直樹が、その座を狙う大和田常務の悪態を暴き、
それを阻止し銀行と頭取を守る、というストーリーなら別のエンディングだったろう。
しかし、あくまでも本筋は「やられたらやりかえす」25年前の怨恨による復讐、それが全面に
出すぎているため、伊勢志摩ホテルを救うとか、銀行を救うとか、頭取を守る、といった部分
が薄っぺらく見えてしまい、それらは復讐のための手段のように見えてしまう。

 多少私の見かたはうがった部分もあるかとは思います。
しかし、現実社会を見回すとなかなか半沢直樹のようにはいかないことが多いのも現実。
言いたくても言えないこと、やりたくても出来ないこと、重くて固い扉に閉ざされた中で
生きている私たち人間の、ある意味代弁者として「半沢直樹」はスターなのかもしれません。

 「目には目を、歯には歯を」ということわざの本来の意味が、「やられたらやり返す」
ではなくて、人ほ傷つければ同じ痛みをもって償わなくてはいけない、という意味で
あることを、誰もが知ってほしいものです。
やられたらやり返すに相応する格言やことわざがないことを考えると、それは間違った
考え方であると言わざるを得ません。
一方で「目には目を、歯には歯を」「天唾」「身から出た錆」などのことわざが多いように、
間違いを起こせばなんらかの罰があるだろうし、人を傷つければ自らも傷つくだろうし、
報復は新たな報復を生むだろうし、巡り巡って必ず自らにも降りかかってくるということ。
同時に、与えれば与えられ、助ければ助けられ、分ければ分け与えられるのでしょう。
きれいごとかもしれませんが、それが人間の、世界の仕組みなんだろうと思います。
スポンサーサイト

子供たちの未来 - 2013.09.16 Mon

 日本の借金は1000兆円ともいわれ、国民一人当たり約850万円の借金があるという。
富裕層の方にしてみれば、ふ~ん、そんなものかも・・と思うかもしれないが、
一般庶民にとってその額は膨大だ。
いや、誰もが「借金なんてした記憶がない」そう思うに違いない。
 
 孫娘を見ていて、この国に生まれてよかったね、と思うことがある。
貧しくて栄養失調で病気になって死んでいく子供たち、いつも紛争ばかりしていて命の
危険にさらされている子供たち、世界の多くの人は飢えと紛争で苦しんでいる。
だから、この国に生まれてきて本当に良かったね、と子供たちを見ていて思うことがある。

 しかし、そんな小さな子供たちも国民一人として計算されている。
つまり、生まれながらにして850万円の借金を背負わされているともいえる。
いや、むしろ現実的には労働生産力のない高齢者は借金返済ができないから、
実質的には子供たちがその分も支払ってはいかなくてはならない。

 はたして、この国に生まれてよかったのか?そんなことを思うことさえある。
日本人の悪い癖に「問題の先送り」というのがある。
隣国との歴史認識の違いや、領土問題なども、先人たちが先送りしてきた問題だ。
自分が生きている間に、その問題に触れなければそれでいい、といったところか?

 国の借金だってそうだ。1000兆円もの借金を作り出した人たちは、自分たちの世代で
返せるとは思っていないし、その気もない。だから後の世代にまかせる、つまり問題の先送り
をしようとしている。解決する気なんて更々なさそうだ。

 少し前に福島原発廃炉に向けての工程表の修正案が出た。
最終的に廃炉が完了するのは、平成52年~62年頃らしい。
それが早いか遅いかは専門家じゃないからわからないが、それでいいのか?
30年先なんて、原発問題に関わった人たちが生きているかどうかさえわからないし、
いずれにしても引退して責任のない立場になっているだろう。
廃炉の対策や費用や作業などもすべて次の世代へ先送りするつもりなのだろう。
だから、自分たちで解決するような短期間の工程表は絶対に作らないのだ。

 子供や孫の顔を見ていると、少なくとも私自身がこの子らに負の遺産を残してはならないと
強く思う。現実的に借金なども残してはならないし、人として間違った生き方や恥ずかしい
生き方なども決して心に残してはならないと思う。
抱える問題は、何一つ先送りはできないと思っている。
何一つ先送りしないことが、子供らの明るい未来につながっていると確信するのだ。

人生は限りなく美しい - 2013.09.06 Fri

 またまたドラマネタです。
昨晩、デスパレートの妻たち8の再放送の最終回でした。
シーズン8までの間、約8年間続いたロングセラードラマです。
シリーズそのものが終了する最終回で、なんとも感慨深いものがありました。

 以前、ここでもこのドラマのことに触れたことがあります。
ドラマの前後に流れるナレーションの内容がとても好きで、いくつか紹介しました。
そして、最終回の最後のナレーションはこんな言葉で締めくくられていました。
「どんなどん底にあっても、人生は限りなく美しい」
デスパレート、という言葉の意味は、このドラマにおいては「崖っぷち」や「どん底」
を意味します。確かに、4人の主人公は常に崖っぷちに立たされ続けていました。
しかし、いつも助け合いそれを乗り越えていく姿は「美しく」もあります。

 商売人に今までで一番苦労したことは?と尋ねると大半は「お金の工面」と答えるらしい。
しかし私はそうは思わない。商売においても人生そのものにおいても「人」だと思う。
思い出せる範囲で今までで一番苦しかったことは、昨年家内が病で倒れた時のことだ。
もしものことを考えた時、私にとってもすべてが終わるような気がした。
今では、当時のことも笑い話で話せるが、本当にあの時は苦しかった。

 では大切なものの順番としてお金は人の次の2番目だろうか?
実は、そうでもない。人以外にもお金で買えない大切なものは沢山ある。
感動であったり体験であったり思い出であったり、また大切な「物」であったり、お金以上に
大切なものは沢山ある。

 バイク仲間のOさんは、古く動かなくなったバイクも含めて9台も所有している。
それぞれに名車だったりするから、売ればそれなりの金額で売れるだろう。
だから私や周りの人は、古いものを処分して最新のバイクを買えばいいのに、と余計な
おせっかいをするのだが、Oさんはそんな言葉に耳を貸さない。
 考えてみれば、私の家の納戸にも9本のギターがある。
壊れたギターや安物のギターもあるが、それなりに高いギターもある。
40年前のものも2本あるが1本は完全に壊れている。
今は全く弾かないので、壊れたものは捨てて売れるものは売ってしまうのが得策といえる。
そうすれば、物置スペースも大幅に広がる。
もし将来また弾きたくなったら、その時に新しいものを買えばよい。
わかってはいるが、全くその気はない。
その理由を考えるとき、Oさんが9台のバイクを所有し続ける心中を知ることができる。
それぞれのギターには、その時々の思いが詰まっている。
それはお金には変えられないものなのだ。
たぶん私もOさんと同じように、今のバイクを動かなくなっても所有し続けるだろうと思う。
ドゥカティでエントリーモデル、女性用モデルと言われる696
随分と手をかけてカスタマイズもしてきたが、そこまでするなら下取りに出して
高性能バイクを買い替えたほうが合理的で現実的で経済的なことは百も承知。
しかし、手をかけた分だけ愛着が湧いてくる、遅いバイクでも私にとっては大切なバイク。
将来、誰かの手に渡ることはないような気がする。

 しかし、多くの人は最も価値があるものはお金だという、大切なものはお金だという。
確かにそうなのだ、お金さえあれば得たいものを得られるし、やりたいことをできるし、
人だって動かせる。お金はほとんどのものを叶えられる力を持っている。
だから人はお金に執着する。
だから人はお金で苦しめられる。

 お金に色はない、とよく言われる。
大富豪にとっての一万円も貧困者にとっての一万円もともに同じ価値でしかなく、同じものしか
買うことはできない。もし今日なんらかで一万円失ったとしても、パチンコで一万円勝ては
それは埋め合わすことができる。それが何倍になろうとも、その理論は確実に成立する。
しかし大切なもの、例えば私にとってギターやバイクなどであっても、それを失ったからと
いって、後に同じものを買えば完全埋め合わせられるか?というとそうではない。
ましてこれが人なら、どんな人でも替わることはできないし、埋め合わすことはできない。
 お金には色がない、綺麗なお金も汚いお金も、あげたお金ももらったお金も、
盗んだお金も盗まれたお金も、宝くじを買うお金も当たった賞金も、引き出しの片隅で
忘れられた小銭もポケットの中の小銭も、共に価値は等しい。
だから失ったとしても、時間をかけて稼げばそれは完全に埋め合わされる。
人は生まれた時には、1円も持たずに生まれてきた。最初の出会い、そして得たものは母親だ。
お金はすべて失ったとしても、覚悟と決断さえあればいつからだってスタートは切れる。
大切な人が周りにどれだけいるか?それ以上の財産はどこにもない。

 デスパレートの妻たちのエンディングは、すべての主人公が大切な人たちと幸せな
余生を生きていく姿を描いて幕を閉じた。
「よかった」と感じるのは、大切な人を失うことなく時間を刻んでいくことに見ている私たちも
安堵を覚えるからだろう。
昨日、今日と人について考えてみた。
人生は苦しいと思う人には苦しいもので、楽しいと思う人には楽しいもので、美しいと思う人には
美しいものだと思う。私は楽しくて美しいものだと、改めて思う人間の一人だ。

人間だけが知っていること - 2013.09.05 Thu

 昨日、テレビドラマ「ウーマン」を見ていてこんなセリフを聞いた。
ウーギークックのこどもたち、というドラマの中で出てくる絵本の一節、
「人間は悲しい。人間だけがいつか死ぬことを知っている生き物だ」
あっ、まさにそうだ、と思った。
逆に言えば、人間だけが「生きている」ということを意識していて、
その事実を知っているのだろうと思った。
だから自殺をする生き物も人間だけなのだろう。

 私たちは生きていることを知っていて、いつか死ぬことを知っている。
だから「人生」について考える。どういう生き方をしたいか?を問い続ける。

 生きている実感、いつか死ぬという不安、この二つは孤独な感覚で誰とも分かち合えない。
だから人は人を求める。一人では生きていけないと感じる。

 私は物心ついたころ一人で居ることが多くて、一人で楽しみをみつけて遊ぶ時間が多かった。
だから今までの人生を振り返っても、一人で何かを楽しむことが多かった気がする。
天体観測をしたり、ギターを弾いたり、何かをコレクションしたり、写真を撮ったり、
釣りをしたり、ドライブをしたり、模型を作ったり、趣味の本を読んだり、
思いにふけったり、絵を描いたり、料理をしてみたり、音楽を聴いたり・・
一人で何かを楽しむとき、誰かに認められるという目的がないため、やりがいがない面もある。
しかし、一人でも楽しめることは多かった。

 その性格は今も色濃く残っているが、この歳になって色々と考え方も変わってきた。
それは、一人よりも二人のほうが、多くの人と楽しむほうが楽しい。ということ。
ここ最近は、毎晩寝る前にリビングで家内と一緒にテレビドラマを見ている。
昔は、家内がドラマ(韓流ドラマが多かった)を見ていても、私はネットをしたり読書をしたり、
別な時間を過ごしていた。あまりテレビが好きではないこともあったが、家にいても別々に
時間を過ごすことが多かったように思う。
しかし、最近では毎日一緒にテレビドラマを見るのがとても楽しみな日課になっている。
二人で見れば、共感する部分や、感動する部分もともに分かち合えてより大きく感じられる。

 妻に限らず、子供や仲間や、知人友人、部下や先輩、多くの人間関係のなかで
人の大切さを痛感することが最近はとても多い。
それは、私自身が丸くなってきたからかもしれない。
一人で何でもできる、一人で生きていくことだってできる、傲慢な私の思い上がりが、
そうではない、と思うことが多いからかもしれない。
人の話を聞き、人から教わり、そして自分も人にそうする。
その単純なことから共感や感動が生まれる。

 一人でも楽しめるが、それを人と分かちあえばより楽しく、
一人で食事をしてもそれなりに美味しいが、人と分け合って食べればより美味しいし、
一人でテレビを見ても楽しいが、人と見れば感動も倍増する。
そして、
苦しいときや、悲しいとき、辛いとき、それさえも人と分かち合えば半減する。

 人間だけが知っていること、
そう、それはいつか「一人」で死んでいくということ。
だから生きているときは、周りの人たちと生きていたいと願うのだろう。
分かち合える人たちと。
 

NEW ENTRY «  | BLOG TOP |  » OLD ENTRY

プロフィール

tsutsui-s

Author:tsutsui-s
広島県在住。
複数の会社と店舗施設を経営。自分に出来ないことはない、という自信過剰ぎみの精神力を糧に、新しいものに挑戦し続ける中年です。

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

未分類 (1)
季節 (18)
プライベート (67)
震災と復興 (5)
ブログについて (9)
モノローグ (130)
バイク (63)
エッセイ (35)
仕事 (16)
趣味 (4)
妻の闘病記 (11)
政治・経済 (11)
家族 (5)
禁煙物語 (7)
入院日誌 (13)
自然災害 (1)
スポーツ (4)
カープ (5)

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。