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2013-02

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一喜一憂 - 2013.02.23 Sat

今月初めに、当社の運営施設の売上が前年対比を大きく上回っていた。
アベノミクスの効果は我社にも!と喜んでいたのもつかの間、
2月も終盤に差し掛かった今、前年割れとなっている(涙。
新聞やテレビでは大手企業の業績回復などがよく報じられるが、輸出企業などは
販売数の増加ではなくて為替差益の増加による収益増が殆んどで、実態経済はそれほど
回復はしていないような気がする。

 2月は結婚記念日や、バレンタインデーや(あまり関係ないが(笑)、私の誕生日やらで
何かとイベントごとの多い月ではあるが、あまり好きな月ではない。
2月は精神的にもテンションが落ちるときで、毎年少し鬱になりぎみである。

 更に今年は、いろいろな問題や不安や悩みが重なり、またいくつかの計画がうまく行か
ないこともあり、今年の2月は超ローテンションだ。
そんな中、2~3明るい情報も入り、少しやる気を取り戻しつつある。

 誰もが自分の人生は自分の思うがままに生きればいいと思っているだろう。
それなのに誰もが思うがままにならないのは、そもそも「自分の人生」という考え方が
間違っているからではないだろうか?
社会生活、人間関係というのは複雑な仕組みで構成されており、私たちはその中の一部として
しか生きられない。時計を構成している個々の歯車には役目があり、その役目以外のことは
できないし、止まることも早く動くこともできない。パソコン内の制御装置のそれぞれは、
決まった役目しかできないし、それ以外のことを勝手に行うことはない。

 思うがままにならないことから、現状を恨み人生そのものを憂う。
それでもちょっとしたことで喜べるのは、そうした窮屈な世界に生きているからなのだろう。
全ての原則が相対の関係にあり、また心も然りなのだろう。
誰もが、一喜一憂、喜怒哀楽の中を生きているのだ。
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依存と自立と相互依存 - 2013.02.17 Sun

 時々、依存心の強い人を見ていると、幸せなんだろうなぁ~と思うことがある。
誰かにすがって、助けられ、人を頼りにして生きる人は明らかに小さな努力とエネルギーで
生きていくことができる。更にそうした人は他人から何かをしてもらうことに喜びを感じるから
それが続けられれば幸せといえる。

 しかし、不幸なのは依存できる人が周りから離れていくこと。
仕事仲間や恋人や伴侶など身近な人から、依存心が強い人は敬遠されやすい。

 一方で、自立心の強い人は人を頼りにしないから個人行動が増える。
だから人間関係も稀薄になりやすい。私はこのタイプだろうと思う。

 どちらがいい訳ではないが、どちらを選ぶかという問題ではなく、自分自身の性格に大きく
左右されるから、そう簡単には変われない。
ただ、依存心の強い人は努力して人の為に尽くすようにし、自分のことは自分でやる努力が
必要だろうと思う。
そして、自立心の強い人は、時に周りの人を頼り、任せる気持ちが必要だろうと思う。
つまり「相互依存」の関係を作っていくことが共に必要だろうと思う。

 はっきりしていることは、依存心の強い人と自立心の強い人との組み合わせは成り立ちにくい
ということ。

 経営者の多くは自立心旺盛な人が多いだろうと思う。
だから、何が何でも会社に居座ろうとする人をあまり好まない。
会社がなんとかしてくれるだろう、そんな意識を持つ人も好まない。
十分な仕事をしていなくても、給料はちゃんと出してくれるだろうと思っている人を好まない。

 依存というのは行動面だけではなくて心の持ち方の問題である。
助けてあげたいと思う人は、私を助けてくれている人なのでしょう。
自分だけのことを考え、人や会社や社会になんら貢献するではなく、
自分のために最低限の努力で生きている人を助けたいとは思わない。

 

夢・3題 ~ 溢れる・湧き出る・増える - 2013.02.14 Thu

 毎晩見ているだろう夢も朝目覚めるとすっかり忘れ去っているものだ。
しかし、印象の強い夢はその都度目が覚めて、「夢でよかった~」とか「なんだ、夢か~」と
ほっとしたり、がっかりしたりして記憶に刻まれることもある。

 さて、昨晩は3つの夢を見て、夢ごとに目覚めた。
どの夢も実にくだらない夢なのに、この3つの夢には全て共通していることがあって、
しっかりと脳裏に焼き付いてしまった。その共通点というのは「増えていく」ということ。
そのくだらない3つの夢・・・とは。

■ 夢1
トイレに行きたくなり私はトイレへと向かった。
便器の前に立ち蓋を開けると「あっ」と驚く。
そこには誰かが使用したまま流されていないウ○チが残っていた(笑
私は即座に水を流すためレバーを引いた。
いつものようにザーと水が流れてきたがウ○チは流れない?
それどころか、水かさが増えるのではなくてウ○チの量が増えている!
そこで再度水洗レバーを引いた。
すると更にウ○チの量が増えてきた。もう便器の淵いっぱいまで増えている。
やばい!なんでだ?と思いつつ、もう一度水洗レバーを引いた。
すると、遂に大量のウ○チが便器から溢れだした!
あぁ~どうすりゃいいんだ??と嘆きながら掃除をはじめた。
【ここで目覚める】

■ 夢2
私は夜行列車に乗っていた。行き先は何故か東京。
乗客の顔ぶれを見ると、車内には私の家内や従業員、それと昔の友人が居た。
何故か座席は仮眠が出来るように広いソファーベッドのような形状だった。
家内は通路を挟んで向かいの普通の座席に座って眠っていた。
私はソファーベッドで横になり眠っていた。
朝、目が覚めるとあたりは明るくもうすぐで東京に着く模様。
私はソファーベッドから起き上がった。
するとポケットに入れていた小銭がぽろぽろとベッドの上に落ちて転がった。
それを拾い始めポケットに入れるのだが、何故か拾っても拾ってもソファーの
隙間などから小銭が湧き出てくる。
すると「間もなく東京に到着いたします」とアナウンスが流れた。
急がなくてはと焦る間もなく電車はホームに到着してしまった。
家内や従業員や友人はみな私に気遣うこともなく下車していくが、
あっと言う間にドアが閉まり私は降りられない。
私は小銭拾いを続けるがきりがなく、ポケットいっぱいになり、胸ポケットにも入れた。
そしてあっという間に次の駅についたので、小銭を拾うのを諦めて降りようとしたが、
ドアは一瞬空いただけで直ぐに閉まり降りられなかった。
どうしよう・・・電車から降りられない・・・
私は、ドアの前に立ち、次の駅についた瞬間に電車から降りた。
ほっと胸をなでおろす。何故か今度は電車のドアはなかなか閉まらない。
すると運転席の窓から車掌さんが顔を出し、お客さん車内にカバンを忘れていますよ、と言った。
確かに!私は手ぶらで降りている・・・
直ぐに電車内に飛び乗りソファーの上のカバンを取ろうとしてしゃがんだ。
その瞬間、胸ポケットにいっぱい詰め込んだ小銭が落ちて通路にばらまかれた・・
しまった・・・と思いつつまた拾い始めた時、後方より「ブァ~ン」という大きな電車の警笛が聞こえた。
やばい!後方から電車が来ている。衝突するかもしれない。私は小銭を拾うのを諦め電車を飛び降りた。
東京というのにさびれた無人駅。人影もなく建物もない。
二駅乗り越しただけなのになんでこんな田舎なんだろう?
とにかく家内に連絡しなくては、と思い小銭だらけのポケットに手を入れる・・・携帯がない!
電車内に携帯を忘れた!小銭は山のようにあるのに辺りに公衆電話はない・・・
どうすりゃいいの・・・
【ここで目覚める】

■ 夢3
私は手荷物を持って大型貨物船に乗っていた。
乗客は他に見当たらない。
向かう先はどこかの島らしい。私の荷物は手荷物だけだったのに、何故か見るたびに増えている。
船内には車は一台も乗っていないが、その車置き場に私の荷物が置かれている。
船が港に近づくにつれて荷物の量が増えていく。
そして港に着いたときには、家一軒分くらいの量になっていた。
これ全部私の荷物??
車もなければ人も居ない。どう考えても降ろすことができない。
その山のような荷物の前で仁王立ちして眺めている私に向かって船長が言った。
「焦らんでもええよ、この港には30分ほど停泊してるからゆっくり降ろしていいよ」と。
たった30分??この荷物の量は1日かかっても降ろせるわけない。
私は小さな小荷物を一つ手にとって船を降りた。
桟橋で腕組みをして船に乗っている荷物の山を眺めていた。
【ここで目が覚める】

 3つ目の夢で朝起きた。
夢というのは現実の一部の投影でもあると思うが、いろいろ考えても思い当たることがない。
では未来の何かを示唆するものかも?予知夢とか正夢とか・・・
お金がいっぱい増えるとかならいいが、その可能性は少なそう。
逆に夢の内容からすると、苦労が増えるといった意味合いぽっい・・
しばらく、日常の出来事を監視して夢の意味を考えてみたいと思います。

大切なもの・必要なもの - 2013.02.11 Mon

 最近、何か行動をするときによく思うのが「これは大切なことなのか?」という自問である。
これは昨年夏に受けたセミナー「7つの習慣」の影響によるものかもしれない。
第3の習慣に「重要事項を優先する」というのがある。忙しい私にとって、日々雑用に追われて
終始することが多く、今日一日はなんだったんだろうか?そんなことを考えることも多い。
人間の行動の決定順位は重要事項よりも緊急事項が前にくることが多い。
緊急であっても内容は雑用が多く、それらに多くの時間を奪われることが多い。
夢や目標に向かっていくための活動であれば、それは自分にとっての重要事項といえ、これらは
優先されるべきことである。

 それらを見極めるためには常に自分の行動を監視していなくてはならない。
私はそれを平たい言葉で「これは大切なことだろうか?」と常に考えるようにしている。
行動に関しては、重要事項(大切なこと)と緊急事項(急ぎの用件)と無意味なこと、に大別できる
と思われるが、人や物については、大切なもの、必要なもの、不要なもの、に分けられる気がする。
そして一番重要なのはやはり「大切なもの」である。

 先週、物置で眠っていた古いスキー用品を処分した。家族4人分のスキー板とブーツであるが、
かなりの量である。子供用と家内のものは数回しか使っておらずまだ新しいし、家族で楽しんだ
思い出の品、といったことを考えると大切なものであるかもしれない。また、将来スキーを始めたい
と思うかもしれないことを考えると必要なものであるかもしれない。
そうしたことを考えていると、なかなか今まで捨てられなかった。
しかし何年もの間、物置の多くの場所を占領していたことを考えると不要物としかいいようがない。
あまり使用していないとはいえ、いざ使うとなればメンテに出さなくてはならないだろうし、
スキーを始める可能性も極めて低いと考えられ、このたび不要物の分類に入れた。

 そうして私は「物」についても分類を始めたのです。しかし、3つのカテゴリーに分けて考えると
なかなか難しく、大切なものというのは殆んどみつけられません。日常生活や仕事で手放せない
携帯電話やパソコンは、欠かすことのできないもので必要なものの分類になります。
しかし、大切なものではありません。もうそろそろ古くなってきているので買い換えようか?と
考えているので、そのものについて愛着も執着もさほどない。
ではバイクはどうだろう?必要性は全くない。なくても困ることは全くない。しかし、いろいろと
手を加え、常に磨いて綺麗にしているので愛着があり私にとっては大切なものかもしれない。
では、大切かつ必要なものは何があるだろう?そう考えると殆んどみつけられない。
家内や家族をはじめとする自分に関わる人ということしか思いつかない。
多分、それが正解なのだろう。
ただし、人というのも自分にとって不必要な人もいることは間違いない。
全ての人間関係が大切とする考えは綺麗事であり、本当に自分の大切な取り巻きの人達のことを
考えた場合、人についても分類して整理することも大切である。

 昨年から不動産の処分をしたり、会社を合併したり、物を整理したりといろいろと効率化を
考えて行動してきた。抱えてきた多くのものや事柄、これらを大切なものと必要なものだけにして
シンプルな状態にしたいと考えている。自分のためでもあり周りの人たちのためにも。
捨てる、処分する、ということは勇気が必要なこともある。
しかし、それは何かを得ること以上に大切なこともある。

三寒四温~望むと望まざるとにかかわらず - 2013.02.08 Fri

 今週初めはとても暖かく、春がもうすぐそこまで来ているのでは?と思わせるような
日々が続いていました。しかし、今日は一変して真冬の様相。朝、粉雪が舞っていた。

 しかし、この時期というのはこうしたもので、いわゆる三寒四温である。
寒い日が三日続けば温かい日がまたやってくる。そんな期待があるから寒さも我慢できる。

 人生も三寒四温ならいいなぁ~とふと思う。
誰の人生も山あり谷ありだとは思うが、谷ばかりじゃないと分かっていれば苦難も乗り越えられる。
倒れ伏しても立ち上がることができる。そう、七転び八起き。
あっ、この七転び八起きという諺とても好きなのですが、昔から疑問があります。
七回転べば七回起き上がるのではないか?とすれば七転び七起きでは?と・・・
まぁ、そんなことはどうでもいい。転べば起き上がる、この精神が大切だ。

 日本語って面白い、七転び八起きという言葉もあれば七転八倒という言葉もある。
七回転んで八回倒れる・・・起き上がると倒れるでは真逆だ。

 しかし、春は望むと望まざるとにかかわらずやってくる。
三寒四温はその事象を表した言葉に過ぎず、夢や希望を表現しているわけではない。
七転び八起きは、何度転んでも起き上がるという強い意思を表現した言葉。
望むと望まざるとにかかわらず春がやってくるように、望むと望まざるとにかかわらず私たちは
年老いていく。だから最後は起き上がっていると七転び八起きを望み、夢を託す。
  

体罰 - 2013.02.07 Thu

 柔道日本代表の園田監督の体罰問題が顕在化してからというもの、スポーツ界全体の問題へと
広がってきた感じである。テレビを見ていると、スポーツ関係者や元スポーツ選手などのインタビュー
がよく報じられているが、誰もが体罰などあってはならないこと、そんなことがあったとは信じられ
ない、といったような発言をしている。

 しかし、本当にそうなのだろうか?柔道日本代表の問題は別として、にわかに信じがたい感じてある。
体罰の基準はとても難しいが、報道されていることからすれば「バカヤロー」と怒鳴ることも言葉の暴力
であり体罰の部類に入るらしい。監督やコーチや先生は選手を指導していく上で、言葉一つ注意をしな
がら接していかねばならないのでは、なかなか身の入った指導は難しいのではないだろうか?

 私たちが若い頃は青春ドラマや学園ドラマが人気だった。はっきりとした根拠がないので敢えてそれら
のタイトルはあげないが、ドラマの中では先生と生徒の人間ドラマが描かれ、先生が生徒を平手打ちする
シーンや「バカヤロー」と怒鳴るシーンなど度々あったように思う。
私自身の学生時代を思い出しても、スポーツクラブの先生だけでなく体育の授業の先生も結構怖かった。
教室から少し離れたグラウンドに集合する時間に少し遅れただけで、全員責任だ!と言われ男子生徒は
横一列に並ばされ、先生が一人ずつ平手打ちをしていったこともあった。
教師の何人かは、節だらけの竹の指揮棒(なんて表現すればいいのかわからないが)みたいなものを持って
いて、時々教壇をそれで叩くとすごい音がした。これで叩かれるとメチャクチャ痛いことは想像が容易
だった。

 そんな怖い先生が多い時代ではあったが、どの先生も熱血先生ばかりでとても好きだった。
プライベートでは先生と遊ぶことも多く、一緒に釣りに行ったり、祭りに行ったり、先生の家に遊びに
行ったり、悩み事を相談したり、と正にいろんな意味での先生だった。
生徒たちもある意味全員が仲間であり友達だった。田舎育ちだから学区もなく幼稚園から高校まで殆んど
同じ顔ぶれで過ごすという特殊な環境もあって、友人というよりも兄弟のような感覚だったかもしれない。
だから悪いことも一緒にやっていたが、「イジメ」なんてことは存在しなくて、誰かに苛められても
誰かが助けてくれるといった助け合う精神が自然に身についていた。

 だから昔の青春ドラマは共感が持てた。現実を少し誇張したにすぎないものだった。
私たちは、学生時代に大人との関係性、友達との関係性といった人間関係を学び、助け合うということを
自然に体験し学んできたように思う。今の学校や社会は規制を強化していくことで、それにかからない
ために「無視」「無関心」を身につける人が多くなり、結果として陰湿なイジメなどを引き起こしている。

 スポーツ界においては特に、心と心の結びつきやぶつかり合いが大切なことは言うまでもない。
それは、学校生活においても、職場生活においても、家庭生活においても全てにいえること。
かといって感情的になることで暴言を吐くことや手を出すことは許されない。
では、何処にその境界線を引けば良いのか?
スポーツ選手のコーチや監督は、体罰や暴言などに値する行動をしないように常に気を遣い、
会社の社長や上司は、パワハラやセクハラにならないように常に言動に気をつけなくてはならない。
そんな環境下で心と心の結びつきは難しいのではないだろうか?

 体罰を認めるわけではない。ただ規制を厳しくしていくことで、いろいろな問題が解決されるのか?
どうかということだ。いや、むしろそれによって稀薄な人間関係を作り出し、新たな問題ができて
いるのではないか?そんなことを懸念しているのです。

疑問 - 2013.02.02 Sat

 数日前の中国新聞に死刑囚の執行方法についての問題について書かれた記事があった。
日本では死刑執行は絞首刑と決まっているが、その方法が残酷であり、多くの死刑囚が薬物注射による
薬殺刑を望んでいるということらしい。
薬殺刑の方法は、3種類の注射を順番にするが、最初の注射で意識がなくなるため苦痛がないという。
絞首刑は江戸時代に行われていたいわゆる「縛り首」を連想させることで、苦痛を伴い残酷な方法と
連想しがちであるが、縛り首と絞首刑は方法が全く異なり、絞首刑においては執行と同時に頚椎骨折を
することで意識を失うため、あまり苦痛を伴う間もないという。

 死刑制度そのものの是非については私は意見を持たないが、ある意味においては反対である。
この記事を読んでいていろいろな疑問が頭をよぎった。
死刑制度ではなく死刑執行方法についての議論というのはどういう意味を持つのか?
苦痛を与えずに執行するということはどういう意味なのか?
それならば、死刑制度そのものを廃止すべきではないか?
と、いろいろ考えさせられるのです。

 記憶に新しいところでは、昨年大阪で通り魔殺人事件がありましたが、犯人の言い分に唖然としました。
「自殺しようとしたが死に切れず、人を殺せば死刑になると思った」という犯行動機。
こんな理由で命を奪われた人の遺族の心中を考えると、苦痛のない死刑執行ではなく八つ裂きにして
ほしいと思っても不思議ではないだろう。

 韓国や中国の歴史ドラマを見ていると、よく死刑執行の方法として両手両足をロープで縛り、馬などで
引かせていわゆる八つ裂きにするシーンなどが出てくる。手足をもぎ取っても致命傷にならないことから、
激しい苦痛を伴う死刑執行方法といえる。日本でも古くは、市中引き回しや釜茹での刑(五右衛門風呂)
など残酷な死刑執行が行われていた。
罪人は多くの苦痛をもって罪を償うという意味では理にかなっているのかもしれない。

 死刑囚の心中を知るよしもないが、苦痛を伴わない執行方法を望むという人が多いならば、
死刑執行を取りやめて終身刑にすべきではないか?と思う。
一生刑務作業をして少しでも社会に貢献することが、ある意味償うということではないか?
大阪での事件からも、死刑制度そのものがあることで犯罪の抑止力になるとは言い切れない。

 全ての人間が平等に必ず一度だけ経験することがある。
それは生まれることと死ぬこと。ただし生まれることは記憶にないために、あまり意識として感じない。
ところが死については、誰もが多くの不安や恐怖を抱え生活を送っている。
もし不治の病になったら、もし大きな事故に遭遇したら、もし大規模な自然災害に見舞われたら・・・
と思うだけで不安に陥る。自分だけでなく、大切な人の命のことまで考えるとその不安はとても大きい。
誰もがいつかは死に至り、その際に大なり小なり苦痛と悲しみを伴う。
そうした意味において、「死」という体験は避けて通れず、それはある意味全ての人に平等といえる。
つまり、死刑囚についても平等といえるのだ。
そう考えた時に、死刑囚が苦痛を伴わない楽な執行方法を望む・・・ということの意味が疑問に思うのだ。

 倫理的に見て死刑制度を反対するというのではなく、死に対して冷静に考える人にとっては、
死刑そのものが本当に刑罰に値するのか?と考えると、誰もが体験する「死」というのは刑罰には値しない
のではないか?と思い、そうした意味においては死刑制度は反対である。

 命というものを考える時、いろいろな疑問に頭が混乱する。
唯一無二、最も大切なもの、自分だけのもの、には間違いないが、そもそもその命を選んだわけでもないし
どれだけ持ち続けられるかもわからない。
自分のものという意識そのものが間違っているのだろう。
選んだのではなければつまり、選ばれたのであり、生かされているのであるということ。
見えない何か、それは神様かもしれないが、大きな力によって授かったものなのだろう。
だから、誰の命を奪うことも、自分の命を奪うこともできない。
それが命というものなのでしょう。

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プロフィール

tsutsui-s

Author:tsutsui-s
広島県在住。
複数の会社と店舗施設を経営。自分に出来ないことはない、という自信過剰ぎみの精神力を糧に、新しいものに挑戦し続ける中年です。

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