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2013-01

「役に立つ」 - 2013.01.24 Thu

 「役に立つ」というのは、人としての存在理由で最も大きな要因ではないかと思う。
もし、自分の存在が周りに対して役に立たず迷惑な存在だとしたら、生きる理由を見つけられない。

 もっと範囲を狭めて日常の行動というのは、どんな動機や理由で決定つけられているだろうか?
やはり「役に立つ」ということで全て括りたいところだが、そうもいかないことが多い。
喫煙、飲酒、夜更かし、暴飲暴食、自分に対して役に立たない悪いことを繰り返す。
陰口、妬み、邪魔、足手まとい、迷惑行為、他人に対して役に立たないことも時に行う。

 人間はあまり合理的な生き物ではない。感情的で不合理な生き物だ。
それでも、自分の存在や行動が世のため人のためになっていると信じている。

 身の回りを見渡せば、役に立たない不要物で溢れている。
何年も着ていない服、数頁しか読んでいない本、物置を占領している鞄、数回しか使っていない釣竿、
小屋裏部屋を占領している楽器類やオーディオ機器、車庫の奥を占領しているのはゴルフクラブと
スキー用品とキャンプ用品・・・・
断捨離を決行して処分したいところだが、なかなかそれも出来ない。

 どう考えても役に立たない、むしろ場所を取り続け邪魔になっているものをどう処分するか?
と考える時、必要な人に差し上げるという素晴らしい選択がある。
それによって「役に立つ」ことが出来る。
しかし、それは「必要な人に」という前提がなくてはならない。

 実はクローゼットや物置の中には結構貰い物の不要物が沢山あったりする。
やっかいなのは、貰い物は簡単に捨てることができないということ。

 何をするにしても人は「役に立つ」という理由は大好きな生き物だ。
しかし、本当に役に立っているのか?自己満足なのか?その見極めが大切だと思う。

 さて、このブログははたして人の役に立っているのか?自分の役に立っているのか?とふと不安に思う。
誰かに或いは自分に「何かを」伝えたいわけではない。
多分に自己満足の世界であったり、自分を美化したり正当化する場所であったりもする気がする。
そう思う時、時間を浪費するだけの場所なのかも?と思ったりもする。
ブログタイトルとかけ離れた思い・・・アカンアカン。
無駄や無意味というのは、物事の前と後が同じ結果のこと。
少なくとも、活字という結果をここには残せている。
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防人の詩 - 2013.01.21 Mon

 お正月の1月3日深夜に『ATSUSHI PREMIUM LIVE ~命をうたう』のライブ映像が放送されました。
私は、atsushiの歌声、歌い方がとても好きで、最近ではソロ活動も活発になりカバー曲も多くなった
そんなことからとても期待しているアーティストの一人です。
後にゆっくり見ようと思い、このテレビ映像も録画しておいた。

 そして、先週時間があったので見ることにしました。
「あかとんぼ」「ふるさと」といった童謡から始まり、古い曲のカバーなど懐かしい歌をatsushiらしく
アレンジして、とても情緒的、感動的なライブ映像に仕上がっていました。
そんななかで、ある曲のイントロが流れはじめたときに、なんか聞いたことあるメロディーだなぁ・・
と思いつつもよく思い出せずに見ていると、画面に「防人の詩」と曲名だけが出た。
防人の詩?誰の歌だったっけ?と思いつつその歌を聞いていた。

 この歌を聴いていると、もの哀しくて、そして温かくて、心が震えるような感覚に陥った。
サビ部分で繰り返される「死にますか?」という歌詞がある。
歌の歌詞で「死」という言葉がこれほど沢山使われる歌はないのではないか?と思われるが、
この歌を聴いている限りにおいて、それほどネガティブには感じられなかった。

 おしえてください、
 この世に生きとし生けるものの
 全ての命に限りがあるのならば、
 海は死にますか?山は死にますか?
 春は死にますか?秋は死にますか?
 愛は死にますか?心は死にますか?
 私の大切な故郷もみんな逝ってしまいますか?

というエンディング。
この問いかけの後に続く隠された言葉は、「いいえ、死んだりしません」と言うことだろう。
私は、そう詠んだ。だから、勇気づけられる気もしたのです。

 この楽曲の素晴らしさ、そしてatsushiの情感こもった歌い方にとても感動した。
そして後日「防人の詩」についてネットで調べた。
1980年にさだまさしが発表したシングルで、映画「二百三高地」の主題曲であった。
さだまさしはとてもいい曲を作るビッグアーティストではあるが、個人的にさだまさしの歌い方が
あまり好きではなく、好んで聴くことはなかった。また、映画二百三高地も見ていないので、
この曲に関してはうる覚えだった。

 しかし「防人」の意味、この詩の意味、がとても気になって、更に調べてみることにした。
そして、私のこの詩の理解の仕方が大きく間違っていることに気がついた。

 「防人」とは今でいうところの徴兵制度のことで、防人(さきもり)というのは飛鳥時代から平安時代
にかけての軍事精度のことであるらしい。
平和な今の時代を生きるものにとって、戦争は無縁のものに思えるが、日本に限らず、世界の歴史は
戦乱にあけくれる歴史であり、そのために一般市民であっても軍人へと駆りだされていた。
栄華を極めたという平安時代であっても、内戦は絶えず多くの防人が命を落としていった。

 そうした防人の思いを歌った和歌が万葉集に多く残されているようだ。
第16巻3852番に
原文 : 鯨魚取 海哉死為流 山哉死為流 死許曽 海者潮干而 山者枯為礼
よみ :
「鯨魚(いさな)取り、海や死にする、山や死にする、死ぬれこそ、海は潮(しほ)干(ひ)て、山は枯れすれ」
という和歌があり、この歌をもとにさだまさしの「防人の詩」は書かれたと言われています。
今の言葉に訳すと、
海は死にますか? 山は死にますか? (いいえ、海も山も死ぬのです)死ぬからこそ、
海は潮が干(ひ)いて、山は枯(か)れるのです。
「鯨魚取り」とは鯨(くじら)取りのことで、和歌でいえば枕言葉になります。
つまり、鯨取りに
海は死ぬと言うのですか?山は死ぬと言うのですか?死んだりしないでしょ
と、聞くと
いいえ、海も山も死にます。だから海は潮が干き、山は枯れます。
と答えが返ってきた。と、いうことだと思います。

 そこで、さだまさしの「防人の詩」のエンディング、
愛は死にますか?心は死にますか?私の大切な故郷もみんな逝ってしまいますか?
という問いは、私が最初に理解した「いいえ、死んだりしません」ではなく「ええ死にます」という
まったく反対の答えだということになります。

 仏教的な考え方からすれば、全てのものは生滅するという基本的な原則がある。
永遠を願うではなく、全てに終わりがあることを知ること。
なくなったりしない、死んだりはしない、といった幻想や希望を抱くよりも、限りを知ることで
その限りあるものを大切に生きていかなくてはならない、生き切らねばならない、という
思いが生まれてくるのではないだろうか?
やはり、ネガティブではなくポジティブな詩として、私は理解したいと思う。

加点と減点 - 2013.01.17 Thu

 最近のTVのバラエティ番組を見ていると、「○○対決」みたいなものか多くなった気がする。
得点方式で勝ち負けを競うわけだが、こうした番組が面白く感じるのは、現代社会の問題が
背景にあるのではないか?とふと思う。

 そもそも人間は生まれた時が0歳ということで、その後1年ごとに歳を重ねていく。
つまり年齢というのは間違いなく加算方式である。
その後、物ごころついた頃には、色々な遊びを覚えゲームをしたり、保育園や学校に通い始めると
色々なことに評価を受けたり、テストをして採点されたりするようになる。

 テストというのは完全に加点方式であり、0点から始まり大抵の場合は100点満点である。
白紙で出せば0点、回答をして正解すればそれに応じて加点される。
人はみな、こうした加算方式を最初に学び、積み重ねることの重要さや喜びを覚える。

 ところが、ある時期からこうした考え方が変わってくる。
多分それは社会人になってから、あるいは人間として自立した頃から。
つまり人間としてある意味成熟された状態において、とりあえず満点とする時期である。
仕事というのはそれを遂行するにあたって、完璧であり満点でなくてはならない。
だからから0点から始まる加点方式は成り立たない。

 私の仕事でいえば、建築関連になるが、施主に引渡しするまでに何度も検査が行われる。
自社検査、元請け検査、諸官庁検査、施主検査、と内容は異なれど、設計通りに完璧なものが
出来ているか何度も検査される。その検査は良い部分ではなくて悪い部分に着目される。
つまり減点方式になる。その減点部分を手直しして最終的に100点満点にして引き渡すわけだ。

 最近、航空機のボーイング787が度々トラブルを起こし問題視されている。
新型機なのである意味満点ではなくて99点なのかもしれない。
しかし、人の命を預けるものであるならば、99点であっても許されない。
トンネルの天井崩落事故にしてもそうだ。完成時には満点であったはずだが、経年劣化が進んだ
状態においては、かなり減点になっていたわけだ。

 こうして人間社会においては満点が求められ、満点ではなくては安心して生きてはいけない。
だから、何か不備がないか?悪いところはないか?間違いはないか?そうした意識が私たち大人の
心に根付いている。それはそれで必要なことなのだが、つい人の評価においても、悪い部分に
着目してしまうことが多い。しかし、人間性においては完璧などという基準がもともとないことから、
評価の尺度は自分の価値観に委ねられる。それによって人間関係のトラブルが起きる。

 小さな子供がうまく字が書けなくとも、うまくピアノがひけなくとも、「じょうず!」と言って
頭を撫でる。しかし、食事が遅いと「さっさと食べなさい」と叱り、遊んでばかりいると、
「お勉強をしなさい」と叱る。ようするに子供の価値観で褒め、大人の価値観で叱るのだ。

 物事には満点という一つの基準があるために、加点と減点が繰り返される。
たいていは加点と減点をされる側であり、時折する側である。
ところが自分に向き合うとき、迷いや焦りや不安に陥る。
自分自身を評価しようとすると、加点も減点も難しい。
たぶん、周りに対しては満点の基準を設けられるのに、自分に対しては満点の基準が設定できない
からだろう。今の自分が80点なのか?90点なのか?或いは30点なのか?自分自身で採点ができない。
誰もが自分自身が満点ではないことだけは知っている。だから悩み、迷い、焦り、不安になる。
かといって、誰にも評価されたくはない。

 人生という時間軸でみれば、それはそもそも減点でしかないのかもしれない。
それを埋め合わすために、私たちは加点をするために努力し続けるわけだが、
それよりも簡単で良い方法は「減点をされないこと」ではないだろうか?
素直であり正直であり、他人を汚すことなく、また自分自身を執拗以上に美化することもなく、
ありのまま、あるがままに生きられるとするならば、減点されることはないように思う。
自我欲にかられ、私利私欲のために邁進することは、なんら加点にはならないものだ。

独り - 2013.01.13 Sun

 タイトルに「独り」と書いたら、なんだかとてもネガティブっぽく感じる。
「独り」ではなく「一人」だとそうでもないのかもしれないが・・

 「独り」という表現は「孤独」とは少し異なる。
孤独を感じるのは多くの場合、独りで居るときではない。
多くの人や仲間と居る時、都会の雑踏や喧騒の中に居る時、組織やグループの中に居る時、
独りではなく多くの人の中で、孤独は突然やってくる。
「孤独を愛する」という表現もよくあるが、それは「独りを愛する」ではないかと思うのです。
孤独というのは、相対の中で取り残されていく寂しさでしかないように思うのだが・・・

 さて、そんなことはどうでもいい。
タイトルを「独り」にしたのは、今が単に独りだからだ。
土日祝は会社は基本的にお休みだから、誰も居ない。
少しやっかいな仕事、神経を集中しなくてはならない仕事、そうしたことは休みの日にすることにしている。
周りに人が居たり、電話が鳴ったり、来客があったりする環境において、なかなか集中して仕事ができない。

 独りでデスクに腰を降ろし目を閉じて想像の世界にふける。
じっと1時間くらいその状態を保つことだってできる。
現在の問題点、現状をどう改善に向かわせるか、どんな未来を作るか、今何が必要か・・・
頭の中が混乱してくると、それらを文字や数字やスケッチをする。
設計、デザイン、経営、分析、哲学、夢、希望、未来、趣味、言葉、ショッピング・・・
それらは全て想像の中でまず組み立てられる。
そして、数字に置き換え、スケッチに置き換え、文字に置き換えてみる。
特に、数字は素晴らしい。0~9の僅か10種類で全てを完璧に表現できる。
それらが、完璧に整えばあとは実行するのみである。

 全てのものは2度つくられる、といった言葉がある。
それは、まず想像でつくられ、そして実行するということだ。
人の行動は全て想像に支配されている。何も考えることなく無意識に何かを行うことはまずない。
私の場合は、その「想像」に費やす時間が圧倒的に多いのではないかと思う。
結果的には、その方が物事はスムースに早く、そして良い結果をもたらせることができると思う。
本業の建築関連の仕事においても、それは言えている。
物を作る前に綿密な計画と設計を行い、作業に取り掛かる前には詳細の工程を作る。
設計も工程も作る作業は想像に委ねられる。
どれだけ正確に想像力を働かせられるかで、完成度は全くことなるものだ。

 そうしたこともあり、私は「独り」の時間が好きなのです。
明日や未来のために、想像力を使うこと。これは人間だけができること。
妄想ではなく、夢や希望でもなく、今立っている場所から確実に繋がっている未来を想像する。
その時間が沢山必要なのです。

なにはともあれ、おめでとうございます - 2013.01.02 Wed

 ここを読んでくださっている皆様(僅かかでしょうけれども・・)、明けましておめでとうございます。
昨日、元旦は何かと忙しかったですが、良い一年のスタートをきることができました。
今日が今年最初の書き込みとなります。
その前に社内報に掲載する「今年の抱負」の原稿を本日は書く予定でした。
内容はほぼ頭の中で組み立てていました。
さて、そろそろ取りかかろうかとしたとき、職場から悪報が入ってきました。

 年末年始は何事もなく過ぎることがベストなのですが、どうしても大なり小なりトラブルはあります。
だから多少の出来事は想定しているのですが、今日の報告は想定外のことでした。
更に、社内報に書く予定にしていた内容が、今日の出来事で根本的に無意味なものになってしまいました。
「今年の抱負」については、今一度考え直すことにします。

 年始早々少し残念な思いを抱えることとなりましたが、気持ちを切り替え前向きに進んでいきます。
「前向き」というのはエネルギーの源には成り得ませんが、針路を示してくれます。
忘れること、断念すること、なかったことにすること、それらも前向きに進むための大きな勇気と決断です。

 「誰かの負けの上に勝利することが目的ではなく・・」という一文が我社の理念の中にあります。
同時に、誰かの悲しみの上に喜びはなく、誰かの痛みの上に快楽はなく、誰かの損の上に得もありません。
そうした考えに立てば、他者を不幸に陥れることもなく、また自分も陥れられる側にもならないと思います。
凛とした姿勢を貫くこと、それが私自身にとっての今年の抱負かもしれません。
何はともあれ、今年もここを続けていきます。本年もよろしくお願いいたします。

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tsutsui-s

Author:tsutsui-s
広島県在住。
複数の会社と店舗施設を経営。自分に出来ないことはない、という自信過剰ぎみの精神力を糧に、新しいものに挑戦し続ける中年です。

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