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2012-01

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季節病 - 2012.01.18 Wed

朝仕事に出るとき空気の冷たさに身震いすることが多い今日この頃です。
病は気からと言われるように、心の持ちようで体調も崩しやすいものです。
この時期、寒さが苦手な家内は気分も落ち込むのか毎年精神状態が悪くなります。
私はそれを季節病だと諦めていました。
なんとか1~2月を穏便にやり過ごせばさい先の良いスタートと思っていました。
しかし、この数年調子が良くてなんとか事なきを得ています。
ところが、私自身が寒さにめっぽう弱くなってしまいました。
数年前まではアンダーウェアなしでへっちゃらだったのに、今は下着の上にアンダーを
上下とも着てその上にパジャマを着て靴下を履いて寝ています。
日中もアンダーウェアなしでは耐えられません。
寒さに強く暑さに弱かった体質が、今は寒さにも暑さにも弱い体質になってしまいました。
そういう時って気分もすぐれず、体調も悪くなってしまいます。
今年は間接痛も酷く、そのために熟睡できないこともあります。
私自身が季節病に悩まされるようになってきたようにも思いますが、
これも単に高齢によるものかも・・と考えるとそれはそれで悲しくもあります。
早く温かくなって欲しい、そしてどうかこの冬も家内の季節病が発病しないようにと祈るばかりです。
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期限付きだから人生がある - 2012.01.17 Tue

1月17日といえば阪神淡路大震災があった日で、今日で17年目ということになる。
奇しくも今日は孫娘の3歳目の誕生日でもある。
失う命もあれば生まれる命もある。
毎年今日という日は、孫娘の誕生を祝う日でもあり、阪神淡路大震災で亡くなられた方の
ご冥福をお祈りする日でもある。
この世は諸行無常、万物は生まれる瞬間があり、それらはいずれ全て滅する。
常に変化し常に何かが起きて、泣いたり笑ったりして生きていく世界である。
とどまることは決して許されない世界なのである。

スティーブ・ジョブスはスタンフォード大学の卒業スピーチでこう言った。
「自分がもうすぐ死ぬ状況を想像するのは最も大切な方法です」と。
未来に多くの夢を描いて名門大学を卒業するという輝かしい門出の席で彼は平然とそう述べた。
何に対しての方法か?といえば、自分が描いた夢を自己実現するための人生を送る方法である。

古代から不老不死の方法に人々は知恵を絞り妙薬をあみ出そうとした歴史がある。
中国の始皇帝は部下たちに不老不死の薬を作り出すように命じた。
従わなければ自らの命と引替えにしなくてはならない絶対命令である。
そして作り出した薬には水銀などが含まれたもので、それを飲んだ始皇帝はその強い毒性で死んだ。
今の医学で言うならば、始皇帝は臨床実験の最初の被験者となって命を落としたということだ。
不老不死の薬であることを証明するには被験者が服用し何百年と実際に生きてそれを証明しなく
てはならない。つまり試験結果を待っている間に、いずれにしても始皇帝は死んでしまうのである。
そうした矛盾やパラドックスの中で、皮肉にも長寿を夢見ながら自ら命を落としてしまったのだ。

さて、科学や医学が発達した現在においても勿論そうした不老不死の薬が存在しないことは
承知の通りだが、老化というものの研究の中で、老化を遅らせる物質の発見や、今までの医学療法
とは全く異なる、ナノ(1mmの百万分の1のサイズの物質)技術によって癌だけでなくあらゆる病気を
科学的に治療する方法も発見されているようだ。
さらには、iPS細胞の研究が進み、あらゆる臓器を再生技術で作り出すことも可能性ができてきた。
そうしたことを考えると、飛躍的に寿命が延びる日が来るかもしれない。
と、いっても不老不死ではなく、人生80年といわれていたのが、人生100年といった程度である。

もし万が一不老不死の薬や技術が完成したら・・・と想像すると、私はとても困惑し混迷するのです。
多くの人は周りでその薬を服用していくなかで、自分もそれを服用するという選択をするだろうか?
私は不老不死を望まないという選択をするだろう。
しかし脳裏には、年老いて死を迎えるだけの床に伏している私の脇で、不老不死の薬を服用した知人が
嘲笑う光景が浮かぶことだろう。
それでも私は不老不死は選択しない、「人生」というものを選択する、と断言できる。

無限に明日という日が来るとしたなら、私たちはどんな日常を送るだろうか?
全てのことを後回しに出来る人生を人生と言えるだろうか?
日々必死に何かを成し遂げる努力家は嘲笑の対象となり、ごろごろと寝て過ごす人で溢れかえるだろう。
iPS細胞技術でどんな臓器も再生できるとして、蘇生が可能になったとしたら、命というものを大切に
するだろうか?殺人罪という罪は世の中からなくなり犯罪が横行するだろうし、道路を走る車は
サーキットのように暴走する車で溢れるだろう。
人々は危険な薬や食材を食し、危険な行為や行動に走ることだろう。

さて、前述のスティーブ・ジョブスの話に戻るが、彼はこう自分にこう問いかけたという。
「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定のことは私は本当にやりたいことだろうか?」
死というものを常に意識して生きること、人生というのは期限付きであるということ、彼はそれを
強調して話している。
言い換えれば永遠に明日がやってくると考えるのは、人生そのものを棒に振ってしまうということだ。

私は40歳を迎えたとき、大きな意識の変化があった。
人生80年としたなら、折り返し地点に到達したということである。
離陸した飛行機もやがて着陸態勢に入るという意識であり、出発した旅もやがて帰路の準備を
するという意識である。
これからの時間は、今まで生きてきた時間よりも短くなる。
そう考えたとき、何をやらなくてはならないか?何をやってはいけないか?そんなことを日々考えた。
しかし、スティーブ・ジョブスから言わせれば、それも実に甘い考え方に過ぎない。
彼は、明日という時間さえないかもしれないというのだから。
数年前一世を風靡した著書マネジメントの中でドラッカーもこう言っている。
「明日何をすべきかではない、不確実な明日のために今日何をすべきかである」

私たちに残された時間というのは、何十年なのか?或いは明日までなのか?それは神のみぞ知るのだろう。
いずれにしても永遠の時間ではなく期限付きであることは間違いない。
期限付きだからこそ、生き生きとした生き方をしようとし、今ある命や人を大切にしたいと思うのだろう。
誰もがいつかはこの世に別れをするときがやってくる。
その時に、人生にありがとうと、周りの人にありがとうと言える生き方をしたいものだ。

塀の中 - 2012.01.17 Tue

広島の市民を脅かした李容疑者の刑務所脱走事件。
13日、54時間後に逮捕され市民はホッとした。

捜査官の呼びかけに対して、自ら名前を名乗り「刑務所へ帰る、疲れた」と言ったそうだ。
「帰る」という言葉から推測されるのは、戻ることを希望しているようでもある。
刑務所の中が良いところとは思えないが、そこが居場所となった者にとって、
居場所を無くした娑婆よりも良いのかもしれない。

この事件から「ショーシャンクの空に」という映画を思い出した。
古い映画だが、私のお勧め映画ベスト3にランクインするものだ。
ストーリーは割愛するとして、主人公とは別に模範囚の老人の生き様が描かれており、
「生きる」という意味を考えさせられた。
その老人は、刑務所内では服役囚や刑務官からとても慕われていた。
彼自身も刑務所の中で、図書係りなどを受け持ちそれなりに生きがいを感じていた。
模範囚であることから彼は刑期よりも早く仮釈放された。
しかし、仮釈放後間もなく彼は自殺してしまった。
娑婆には彼の生きる場所が見つけられなかったからだ。

李容疑者は3日間寒空を彷徨い、空き巣に入り、街角の建物の陰で寝たのであろう。
しかし、何処にも自分が生きていける場所は見つけられない。
脱獄犯をかくまってくれるような人も居る筈がない。
彼の居場所は刑期中は刑務所しかないのである。
そのことを悟ったに違いない。

塀の向こうは見えないだけに、色鮮やかで温もりに満ちた世界を想像しがちだ。
ところが一旦塀の外に出たら、やはりその塀の向こう(もとの世界)が良く見える。
我々の心の中にもいくつもの塀がある。
人は、見知らぬ世界や、他人の生活や、未体験のことに対して過大評価してしまう。
しかし、案外乗り越えない方が、心安らかに日常を送れるのかもしれない。
井の中の蛙は出られないのではなくて、外に出ない方が安全に生きられることを知っている。

どの塀を乗り越え、どの塀を乗り越えないか、それは人生において大きな選択かもしれない。

夢は不可解 - 2012.01.15 Sun

今朝一度目が覚めて、起き上がるのが辛かったためそのまま二度寝した。
最近、二度寝が多い。冬だから、という理由と体調からの理由。

二度寝をするとよく夢を見る気がする。
それは、多分最初の睡眠でも夢はみているのだろうけれど、目覚めとともに
忘れてしまっているのではないだろうか?と思われる。
二度寝の際には夢の途中で目覚めることが多い。

今日の夢は「岩を砕く大男」「崖っぷちの家」「3本足の少女」「完成しない家」
「物静かなお父さん」「霊的才能をもつ女性」「灯台建設依頼」「水漏れ」
「田舎道に広がる都会のネオン」「交通事故」「マヌケな友人」・・・・
と登場人物とキーワードがとても多い。
ストーリーは実に意味不明。しかし、それらが次のシーンへと次々繋がっていく。
夢というものが自分の深層心理などと繋がっているとするならば、夢から自分を
みつめられるかもしれないが、到底想像すら難しい。

到底ありえない現実が夢の中でいとも簡単に組み立てられる、というのは
いったいどういうことなのか?いつも不思議でならない。
寝ている間も脳はある部分活発に活動し、現実や時空を越えて色々な場面を
つくりあげているのだろうと思う。


不思議な来訪者 - 2012.01.13 Fri

昨年の夏あたりに「N社のIさん」というタイトルでブログを書いた。
20年ほど前に取引があった会社の担当者の方が突然来訪され、
何故私に会いに来たのか全く不明のまま帰られたが、その後何も連絡がなく、
営業目的でも何でもなくただ訪問されただけだったようだった。
そのIさんが、今日また来訪された。
共通の話題が殆どなく、日本の経済情勢の話などで30分ほど時間をつぶして帰った。
さて、今日も何も目的がなさそうである。
Iさんは昨年某建設会社を定年退職して、現在全く畑違いの会社に務めている。
あと、1年ほどで年金ももらえるので、それまでの辛抱ですと語る。
私の想像だがIさんは多分現在の会社では営業職なのだろうと思う。
一日に何軒か会社訪問した実績が必要なのではないかと思う。
私に会いに来ることで、いちよう業務報告書に訪問した企業名を記載できる。
あと一年、なんとかそんなことで繋いでいきたいのではないか?
そうとしか考えられない。
となると私と同様、不思議に思いながらもIさんのお話の相手をしている人は多いのだろうな。
悪い人じゃないし、何の下心もない。
だから、特に問題は何もないが、今後何度尋ねてくるのだろうか?

今年の抱負 - 2012.01.07 Sat

みなさん、明けましておめでとうございます。
本年も私ともども当ブログをよろしくお願いいたします。

と、いいましても昨年12月は1回のみの投稿と非常に少ない投稿になってしまいました。
これではとてもブログとは言えませんね(汗
そもそも、ブログとは日記という部類に入るわけで、そうなると毎日書くのが本筋。
日々、あった出来事を書けばそれでいいことなのでしょうが・・・

さて、年初といえば、誰もが「今年は~な一年にしたい」と抱負を持つもの。
とても大切なことであり、とても大切な時期だと思います。
しかし、半月もすればそんなことは忘れてしまって、いつもの日常に戻ってしまうのも事実。
何か決意や決断すると、何かに書き残す、という作業を加えると効果的といえます。
そこで、当社グループ会社。施設では全員に今年の抱負を書いていただきました。
それを社内報に掲載して配布をするので、読み返せばこんなことを誓った、というのが
誰でも確認できるのです。
しかし、これにも一つの問題があります。
自分がプライベートの日記や手帳に書き記すなら良いのですが、全員が確認できる社内報と
なると、誰もがありきたりの控えめな内容を書いてしまいます。
今年は※※を達成するぞ!みたいなことを書くと、達成できない場合まわりから突っ込まれる
可能性があるわけです。そうした面ではマイナスとも言えますね。
それでも、文章にして残す、ということには重要な意味があると思っています。

私自身も毎年会社全体の指針を掲載しています。
今年は何に力を入れていくか?ということを示すわけですが、個人的な目標ではなく
会社全体の目標として掲げます。
そして私自身も数ヶ月するとそのことをさっぱり忘れてしまうことが度々あります。
荒波の大海原を迷うことなくちゃんと方向を示していくことが指針です。
忘れてはならないのは、従業員ではなく私自身だと肝に銘じてこの一年をスタートします。

忘れないためにも、とりあえずここにも記すこととしました。
以下長文なので、ヒマがあったら読んでください。

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【本年度指針】

もういくつ寝るとお正月、お正月には凧あげて、コマを回して遊びましょ・・」誰もが知っている「お正月」という唱歌も今では殆ど聞くことがなくなってきました。つまり、歌われなくなったということなのでしょう。

 多くの童謡や唱歌が歌われなくなるのは無理もありません。唱歌「お正月」は百年以上前に作られた歌ですが、この百年のうちには大きく時代が変わり、価値観も変わってしまったからです。凧あげやコマ回しを楽しいと思う子供たちはあまり居なくなったということなのでしょう。今や娯楽というカテゴリーにおいては何でもありの時代で、みんなで何か同じことをするというのではなく、それぞれが楽しみたいことをやっているようにも感じます。
 遊びという意味においては、昔の凧あげやコマ回しも、現在のネットゲームも同じ分類だと思いますが、両者には大きな違いがあるように思います。凧あげやコマ回しというのは、遊ぶ側の想像力や技量・裁量がそのまま反映される遊びで能動的といえますが、一方でネットゲームなどのコンピューター上の遊びは、誰かのプログラムをある意味トレースするだけの受動的な遊びであるといえます。 凧あげをしている時に、予期せぬ風に煽られバランスを崩したり、コマ回しでは相手のコマに弾き飛ばされてどこかへ飛んでいったり、アナログな遊びには予期できない出来事が常に起きていました。しかし、現在のデジタルの遊びでは、どんなアクシデントもプログラマーの想定を越えることはありえません。「想定外」ということがあってはゲームとして成り立たないのです。

■想定外の心理

 2011年新語・流行語大賞にもノミネートされた「想定外」と言う言葉。福島第一原発事故後何度もテレビ報道で耳にしてきたからノミネートも頷けます。この想定外という言葉は実に都合がいい、想定外であればある意味なんだって許されてしまうのですから。そういう心理にさせてしまうのは、デジダル時代が生み出した意識かもしれません。
 娘がまだ小学生の頃、スーパーファミコンでマリオカートを一緒によくやりました。しかし、私は娘に勝ったことが一度もありません。もともと、娘の方が上手かったのも事実ですが、それでも私が優位にゲームを運ぶことも時にはありました。ある時、私が優位のままゴール間近というとき突然テレビ画面が消えたのです。どうしたことか?とファミコン本体を見ると、なんと負けず嫌いの娘が電源を切っているではないですか!ゲームは当然ながらリセットされてしまいゴールに辿り着けないまま終わってしまいました。そんなわけで、私は一度も娘に勝ったことがないのです。
 子供の頃、自転車競走をよくやりましたが勝負がつかないで終わるということはまずありませんでした。どちらかが転倒して怪我をすることもありましたが、それは想定外ではなく想定内の出来事です。一方でテレビゲームでは何度も転倒や衝突もするが、怪我をすることはありません。カートはテレビ画面から飛び出すこともなければ、設定のスピード以上早く走ることもない。全てが想定内の出来事で勝敗が決まるのです。しかし、電源リセットというのはプログラムにおいては想定外の出来事で、これに対してはなんら対処法がありません。電源リセットという想定外の出来事に対しては、ゲームをなかったことにするしか方法はないのです。娘はその理論を熟知しており活用したのです。(笑
 福島第一原発事故では「想定外」と言う言葉で、誰も責任はないことにしてきました。自然災害というのはデジタルな出来事ではなくてアナログな出来事です。凧あげの際、突風に煽られたり、自転車競走で石に躓いて転んだりすることと同じ出来事です。しかし、科学者や関係者はそれを確率という数値、つまりデジタル化し可能性として0にして、想定外の出来事として処理しました。
 アナログの遊びをしなくなった子供たちが大人になり、全てが数値化された想定内で生きるようになった今、想定外というものを受け入れられない軟弱な体質の人間が多くなったように思えてなりません。

人生には3つの坂がある

 記憶に新しい話では、小泉前首相がこの言葉を使って有名になりましたが、私は随分と前からこの言葉を、幾度となく聞いていました。実は当社の株主でもある○○会社の※※会長が度々この言葉を口にしていたのです。
「人生には3つの坂がある、一つは上り坂、もう一つは下り坂、そしてもう一つはまさかである」という言葉です。人生に上り坂と下り坂がある、というのは教訓であり誰もが身をもって感じているところでしょう。しかし「まさか」という坂は誰もが考えたくない坂の一つです。つまり「まさか」というのは「想定外」と同義であり、今日、交通事故に遭遇し瀕死の状態になる・・・といったことは、「まさか」でありそうした「想定外」は考えたくない(考えない)のです。しかし、経営者や重責にあるものはそうした「まさか」でさえ「想定内」としていつも考えておかなくてはなりません。「まさか」のときに家族は?会社は?どうなるか?ということをちゃんと考えておかなくてはならないのです。※※会長は、いつもこの「まさか」ということを考えて行動する人だと思います。何かの決断を下す際に想定外のことを一度想定して、それにどう対処できるかを考える、その上で決定を下しているように思えます。それは石橋を叩くこととは意味が違います。石橋を叩いてばかりいてはいつになっても川を渡ることはできません。リスクはリスクとして受け入れ、不測の事態にはそのリスクをどう乗り切れるか?ということを考えるのです。※※会長をはじめ優れた経営者というのは、そうしていくつもの大河をも乗り越えてきたのだと思います。
 福島第一原発事故の後、原子力安全委員会の方が「想定外のことは検討しなくてもいいんですよ」といったことを平然と述べたとき、愕然としました。こんな人がトップに居るのでは事故が起こってもしかたない・・そう感じました。デジタルの世界やコンピューターゲームの世界では「まさか」はありえません、まさかに思える出来事も全て数値化された結果であるためです。科学と技術の粋を結集して開発した原発は、事故が起きないという安全神話を作り出し、「まさか」はない、事故は想定外としました。しかし、自然災害はデジタルでは予測のつかない完全なアナログです。よって原発事故は、まさかという坂を想定しなかった国と関係者の責任に他ならない。

■昨年度の指針を振り返り

 一年前、本紙面上にて私は全施設において前年対比売上を1%でも上げることを目標とすることを掲げました。グループ施設においては基幹事業でもある大和温泉物語は、11月からの新年度においては4ヶ月連続で前年越えをしており、この調子なら前年越えは達成できるだろうな・・・という安易な気持ちになっていました。ところが3月11日、東日本大震災という未曾有の大災害に見舞われて以降、国民の消費意欲衰退や娯楽に対する自粛ムードの高まりから売上が一気に下がりはじめました。更に、マツダ関連の土日操業開始で稼ぎ時の土日の売上も大きく下がりました。結果として、10月決算では前年割れとなってしまいました。
 
「たら」「れば」言い訳の心理

 もし、このような大災害がなかったら(なければ)、目標達成は可能だったでしょう。私も、一瞬はそう考えました。しかし、それは「まさか」を想定しない思考にすぎません。不可抗力による不測の事態というのは、常に起こることを想定した上で目標設定はしなくてはなりません。だから、どんな理由があろうとも目標は達成されなかった、という事実は変わりません。つまり、東日本大震災がなかったら・・というのは言い訳になるのです。
 過去に本誌でも何度も「言い訳」について書いてきました。言い訳の最たるものは、「もし」・・・「たら」という文脈です。私たちは多くの時間を「言い訳」のために費やしています。それは決して悪いことではありません。失敗の理由を見つけて未来に生かせるなら言い訳も価値があります。しかし多くの場合、人は言い訳によって自分自身を正当化してしまいます。そうなると同じ失敗を何度もするようになってしまいます。
 
失敗から学ぶこと

 昨年の指針を今一度読み返してみて、前年越えという目標が達成できなくてある意味よかったと、今は感じています。前述したように、もし東日本大震災という大災害が起きなかったら、大和温泉物語においては目標達成できたかもしれません。しかし、もしそうであったならそれが称賛に値するでしょうか?それどころか私は私自身の間違いに気付くことすらできなかったでしょう。昨年度の指針では、前年対比1%でも売上を伸ばすことを謳い、その方法として重要なのはスタッフ一人ひとりのあり方としている。また、県の海の道一兆円構想に期待する他力的な発言もしている。つまり、目標に対して「方法」と「手段」が明確ではないということです。そんな曖昧なもので目標達成したのでは、今後もっと厳しくなるであろうサービス業の業界で生き延びていくことなど到底不可能であろうと思われます。
 釣りに出かけて大漁の際には、「なぜこんなに釣れたのだろうか?」とは人はあまり考えません。しかし、全く釣れないときには「なぜ釣れないのか?」とその理由を必死に考えます。その時に「今日は海に魚が居ないのだ」と考える人と「仕掛けや釣り方が不味いのだ」と考える人とでは、次回同じ場所で釣りをしたときには、大きな釣果の差があるでしょう。うまく行かないとき、失敗したときにこそ「考える」という機会を与えられ、それが次のチャンスになります。昨年度の失敗は今年度の糧となる、そう考えれば、昨年目標達成できなかったことにも意味が生まれます。

娯楽について考える

 この本文の書き始めに「お正月」の歌の歌詞から書き始めたのは、実は「娯楽」の原点を考える意味で書き始めました。ところが、本筋から随分蛇行してしまいました。私の場合、文章は考えて書く、というより書きながら考えることが多いため、こうしたことがよくあります。しかし、より伝えたいことが自分自身でも明確になってきたようにも思え、このまま繋げていきます。
 文頭で、昔の娯楽を能動的、現在の娯楽を受動的と書きました。それでは私たちのサービス業においてはどちらに分類されるでしょうか?少なくとも家でコタツに温まっている人にはなんら何も提供できないことから、私は能動的な娯楽と考えています。能動的ということは、お客様自らの意思でもって行動し実行されることから、言い換えれば体験型とも言えます。決してバーチャルなものはそこにありません。
 「釣り」というのも能動的で体験型の娯楽・レジャーだと思います。先日、ある雑誌でフィッシングゲームの記事を見ました。テレビ画面に連動した釣竿型のコントローラーを操りバーチャルのフィッシングが楽しめるというものです。テレビ画面には良く行く実際の釣り場の画像データを表示することも出来、更に釣りたい魚の種類も登録できるようで、フィッシングの醍醐味を味わえるといいます。寒い冬に出かけなくとも、休みの日でなくとも、天気を気にすることなくいつでも楽しめる・・・・? しかし、かつて釣りによく行っていた私としては疑問でなりません。前夜、時間をかけて仕掛けを作り、眠いのを我慢して夜明け前に釣り場へ行き、寒さを我慢しながら、荒れる海のしぶきを浴びながら、中々釣れない魚を待ち続ける。それらの苦労(ストーリー)を全て含めて「釣り」という娯楽なのだと考えます。だから、フィッシングゲームに没頭することは絶対ないだろうと断言できます。
 娯楽というのは、体験(ストーリー)があって本当の娯楽だろうと思うのです。そうした意味において、私たちの商売というのはその体験の舞台を提供している、ということではないかと思うのです。

■サービスの原点に立つ

 昨年末頃、社内ミーティングやテナント会、忘年会の席において再三「サービスの原点に立つこと」という話をしてきました。これは「初心に帰る」という意味ではありません。なぜなら初心において「サービス」という原点に立っていたか?というとそうではないからです。サービスというのは、初めからそこに設定されるものでも、備え付けるものでもなく、積み重ねていくものであることから、もともとそこにあるとはいえないのです。
 近年、サービスという言葉はあまりにも広義に解釈されすぎ、あらゆるものに「サービス」という言葉がついてきます。
サービスクーポン・サービスエリア・割引サービス・ドリンクサービス・webサービス・サービスステーション・半額サービス・クレジットサービス・配送サービス・シルバーサービス・サービスガイド・デイサービス・カスタマサービス・認証サービス・サービスマップ・ロードサービス・・・などなど、Googleで「サービス」と検索を入れるとなんと17億6千万件の検索結果が出ます。サービス業でなくとも、あらゆる業種でサービスと言う言葉が多様に使われ、中には意味不明?なサービスまで存在します。
 厳密に言えば99%は元来のサービスとは異なるものかもしれません。Wikpediaでは「サービス」について以下のように定義しています。
「売買した後に物が残らず、効用や満足を提供する、形のない財のこと」
また、その特性としては、
生産と同時に消費される・生産と消費を切離せない・品質は一定ではない・無形で試すことができない・在庫不可能。とあります。それらを全て当てはめていけば該当しないサービスは多いようです。
 我々サービス業において提供するものは、先に述べた通り「体験の舞台」であると思います。それはバーチャルではなくデジタルでもない完全なアナログの舞台です。五感を通して体験をするわけです。五感、つまり視覚・聴覚・触覚・味覚・臭覚において、どれだけ満足できるか?というのがお客様にとっての価値観になります。これら五感の感覚はどれも、形がなく一定のものではなく、持ち帰ることも在庫することもできません。つまり、これらの品質こそサービスの品質に比例するものです。
・施設が常に清潔で整っている
・優しい心温まる笑顔
・思いやりや気遣いに満ちた言葉
・礼儀正しく丁寧な所作
・綺麗に磨かれた床や壁
・心地よい音楽や香り
・高齢者、体の不自由な方に手を添える
・綺麗な盛り付けの料理
・綺麗に並んでいるトイレのスリッパ
・砂や埃のない下駄箱
・清潔なユニフォーム
・丁寧でわかりやすい案内
・美味しい料理
・雑音や無駄話の聞こえない空間
など挙げれば無数にあります。五感を通して満足を提供できるもの、またその質の高さこそサービスの質の高さといえるでしょう。特に、人間は「視覚」と「聴覚」で多くの情報を得て良し悪しを判断します。施設そのものは不動の固定物であることから、一定のものしか発信できませんが、人は常に可動で常に変化することから、人(つまりスタッフ)が発信する「視覚」と「聴覚」は重要なものとなります。つまり、お客様に対する表情(視覚)や言葉使い(聴覚)、これらは基本ではあるものの、とても重要なものであるということです。
 ディズニーランドでは従業員のことをキャストと呼びます。つまり従業員はディズニーという舞台の中で演じる役者ということです。お客様(ゲストと呼ぶ)に最高に楽しんで頂くために、最高の演技をするキャストがいて、ディズニーは今尚多くの人に愛されているのです。最高の演技をする、それこそが最高のサービスをする、といえるのではないでしょうか。

 長くなりましたが、本年度の指針はもうおわかりと思います。
「サービスの原点に立つ」ということです。我々サービス業の原点でもあります。よって、各施設ごとの注力点や目標値はありません。売上というのは「結果」だと思います。どんな時代になろうとも、お客様が得たいと思うものを提供できる施設であれば、どんな「まさか」に出会っても、それは乗り越えられるものでしょう。





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プロフィール

tsutsui-s

Author:tsutsui-s
広島県在住。
複数の会社と店舗施設を経営。自分に出来ないことはない、という自信過剰ぎみの精神力を糧に、新しいものに挑戦し続ける中年です。

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