topimage

2011-09

スポンサーサイト - --.--.-- --

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

酔っ払い - 2011.09.22 Thu

昨晩遅くにある男性から電話があった。
その人物とはまだ面識がなく、以前一度電話で話をしただけだ。
彼は酒に酔っているようすで、礼儀と配慮に欠ける言葉で親しそうに話しかけてきた。
○○の△△を知っているとか、※※を知っているでしょ、とか私との関連性のある人物の
名前を出したり、自慢話っぽい物言いを繰り返した。
そして最後に「今度、広島で飲みに行きましょう」と誘ってきた。
お誘いは社交辞令だろうけれど、それをわかった上で私は、
「私は全然酒が飲めないので遠慮します」と断った。

酒を飲むことは全く問題だとは思わないし、酔って良い気持ちになりストレス発散できる人を
とても羨ましく思う。私にはそうした楽しみも方法もないから。
喫煙者は社会の邪魔者扱いで陰でこそこそ、或いは隔離された場所でタバコを吸わねばならない。
一方でお酒を飲む人は、酒の席は無礼講、なんて言い好き勝手な言動をする人も居る。
お酒を飲んでいる者どうしは好きにやっていただいていいのだが、素面の人に酔った勢いで、
好き勝手言うことは許されないし、酒を飲んでいるからなんていうのは言い訳にならない。

昨晩電話してきた彼には、同業者でもあり一度は会ってもいいかと思っていたが、
昨晩の電話でその気持ちは全くなくなった。

タバコで人生を狂わせたり大失敗をすることはないし、暴言を吐いたり、暴力を振るったり、
家族や他人に迷惑をかけることも少ない。しかし、お酒は大いにその可能性がある。
私自身、全くお酒が飲めないわけではなく、学生の頃や会社勤めを始めたころは、結構先輩に
飲まされていた時期もあり、多少は飲めるのだろうと思うのですが、それでも基本的に飲まない
ことにしています。酔っ払いの醜態が嫌いで、自分はそうなりたくない、そう思うからです。
酔っていようがどうしょうが、言動には全て自分が責任をとらなくてはならない、と思います。
酒を飲んでいるから、という理由で許されることなんて何もないと思うのです。

思えば、私の亡き父は一滴も酒を飲みませんでした。
と、いうか酒を飲んでいる姿を一度も見たことがありません。
だから、全くお酒の飲めない人間なのだと、ずっと思っていました。
しかし、父の若い頃を知る何人かの方から最近「貴方のお父さんは若い頃凄い酒飲みだった」
との話を聞いて私は驚きました。そして、かなりの暴れ者だったという話も・・・
正月のおとそさえ口にしない父の姿から、それは想像不可能な姿であることは言うまでもない。
きっと、何かがあってお酒を断つと決断したのだろう、そう思うのだがその「何か」を知る術はない。

多分、私は酔っ払いが嫌いなのだろうと思う。
逆に、お酒を嗜好品として嗜む人はとてもカッコイイと思う。
どんなにお酒が好きでも、ちゃんとセーブできる人は素晴らしいと思う。
自分自身を制御しコントロールできなくては、人として不完全だと私は思うのです。
スポンサーサイト

頭を悩ますこと - 2011.09.20 Tue

最近テレビ番組が兎に角つまらなくて殆どテレビを見ない。
テレビというメディアも衛星放送やインターネットなどにシェアを奪われて、
今は不況業種の一つのようで、スポンサーがつかず、結果番組制作費がかけられないため、
制作費のかからないバラエティ番組ばかりになっている。
バラエティ番組では多くのタレントが出るから、出演料がそうとうかかるだろう・・・と
思われるがそうではない。一流タレント以外は出演ギャラはビックリするくらい安いものだ。

そんななかで、NHKはいい番組が多い。バラエティ番組は殆どなくてNHKスペシャルに代表される
ドキュメンタリー番組はどれも見ごたえがある。受信料を支払うことが悔しくない番組つくりに
好感が持てる。最近はコズミックフロントやサイエンスゼロなど科学番組系も面白い。

コズミックフロントは宇宙をテーマにした番組であるが、私が昔から悩んでいる宇宙の謎に
ついては番組をじっくり見てもなかなかすっきりはできない。
宇宙望遠鏡ハッブルの改良によって131億光年前の天体、つまり宇宙が誕生して間もない世界の
光を捉えることも可能になり、宇宙の全体像も解明されつつあるが、そのためには大きな壁がある。
それは、いわずもがな時間の壁だ。時間というのは「物質」や「量」として捉えることがなかなか
難しく、見ることも触ることもできないから頭を混乱させる。
しかし、時間の概念を超えた考え方を脳みそがしなくては、宇宙そのものを理解できない。

誰もが最初にぶつかる壁は「宇宙の果て」だろう。
宇宙に果てはあるか?という疑問は、「ある」というのが答えだ。
誕生したものには最初があり、スタート地点があり、終わりがある。だから、果てはある。
その次の疑問は、宇宙の果ての向こう側がしどうなっているか?だろう。
これは、「無い」といえる。なんだか誤魔化した言い方だなぁ~、と思われるかもしれないが、
「無い」という言い方が正しいのではないかと思う。
仏教で言うところの「無」というのは、何もないこと、それは物質だけでなくて時間も存在しないこと
である。その「無」である。時間がなければ、「考える」という行為そのものが意味のないことである。

では、果てには何があるのか?実は、これもあまり意味のある考察ではない。
131億光年の先は宇宙誕生の世界があるのだろう。それが果てといえるかもしれない。
そうなると、宇宙の果ては宇宙創生であり、宇宙誕生の前の世界、つまり「無」であるということだ。
私たちは空間というものを、3次元でしか考えることができない。そのためにこの宇宙空間を頭の中で
想像し描くことはできない。どんな形?と考えた瞬間、それは3次元的な思考で間違いだといえるからだ。

私の悩みは、なんとかそうしたことは理解できクリアできている・・・と思っている。
理解できないのは、宇宙の存在そのものだ。1億光年先にある星は1億年前の姿を見せているが、その星
から地球を観測してもやはり1億年過去であり、われわれ人類は居ない。
それは単に、お互いに光の残像を見ているからだけだ、と考えられるが、ではこの二つの存在を同時に
観察することも、観測することも不可能であり、実態そのものを証明する術はない。

ようするに、全ては捉われた世界の中にあるということだ。過去と未来が混在する中で現在を感じて生きている。
多くの矛盾がたちはだかり、頭を混乱させる。137億年前のビックバンという現象も、137億年という時間を
超越して同時にこの世界にあるのではないか?と思われる。しかし、ビッグバンという定説がどうも納得
いかないのだ。むしろその逆で、何もない無の世界に物質が生まれ(時間が生まれ)、その時間がどんどん
広がったことで宇宙という広大な世界が生まれ、いずれ一つの点に収束されてしまう。
つまり、ビックバンと逆の現象がおきて、膨張宇宙ではなく収縮宇宙であり、我々は未来から過去への
旅の途中にあるのではないか?つまり、未来というのも既に存在しており、それもやはり「無」である。

言葉にすると奇妙な言い回しで、やはり伝えきれない苛立ちを覚えるだけであるが、宇宙観というものが
どういうものか?悩まされ続けてきた感覚に、なんとか納得させられる仮説が欲しいといつも思う。
実は、簡単な答えがあるのだろうけれども、それを理解する脳が人間にはないのだろうと思う。
肉体を宿した瞬間から、私たちは自分の頭でしか物事を考えられない。
ある意味、それはとても不憫なことなのだろうと、いつも思う。

夢のつづき ~ 書くこと・描くこと - 2011.09.15 Thu

先日から取り掛かっていた個人的な「夢」の素案ができた。
添付の写真は全30ページ分の作成資料を一覧したものです。
超低解像度のモザイクかけまくりで何がなんだかさっぱりわからないと思いますが、
それでも一旦ここにアップしたのには理由があります。
何の約にも立たず、素人の浅知恵に過ぎないかもしれませんが、
万が一、これが実現もしくは一部でも採用されるとするならば、私が考えたものであることを
証拠として残したかったからです。
知的財産の保護は法的手続きやらが大変面倒で時間と費用がかかり、それに費やしたくないと
思い、とりあえず今日の時点でここにアップしておけば、その記録が残るだろうと・・・

コンピューターが普及した現在においては、何でもデータ化されそのデータはネットを利用して、
受渡しすることも共有することも可能な時代になりました。
それはとても便利なことなのですが、それゆえに大切なものでも簡単に漏洩し転用や悪用される
こともあります。

我々設計などをする者の世界でいえば、今から二十数年前にCADの普及が始まりました。
当時はパソコンは普及していない時代で、CADシステムを構築するには数千万の投資が必要だった
ため、大手ゼネコンや大手設計事務所の一部が導入する程度でした。
しかも、入力するためには専門のオペレーターが必要な時代でした。
数年後、パソコンの普及と共にCADシステムも低価格になりつつあり、我社も遂に導入に踏み切り
ました。普及といっても一千万以上しました。

設計業界において、CADの普及というのは革命的な出来事でした。
何故か?というと、建築などの設計図を見たことがある人ならわかると思いますが、例えば平面図
一つとっても何十種類と図面があるのです。仕上げを記入したものや、設備、電気、給排水、空調
弱電、放送設備、などなど、それぞれに別な用途の図面がいくつもあります。
CADのない時代は、まず建築図をトレース(手書で書き写す)ことから始めなくてはならず、
それには膨大な手間がかかっていたのです。
それが、データ化されたことにより、大幅に手間が省けるようになったのです。

それゆえ、CADの普及当時はCADデータは簡単に渡してもらえなかったのが現実です。
場合によってはデータをお金を払っていただくこともありました。
数千万の投資をしてオペレーターを雇いデータ化されたものは、手書よりも遥かにコストがかかっていた
時代でしたから、そう簡単にデータを渡すわけにはいかなかったのです。

そんな時代からすれば、今は何でもデータ化され、家具や照明器具や衛生器具などもメーカーのHPに
アクセスすれば無料でデータが手に入ります。CADソフトだって無料ソフトで充分な時代・・・
図面を書くためのコストは飛躍的に下がって、手書よりも何倍も効率的になったのは間違いありません。

かつて手書の図面を描いていた人は、同時にパースやスケッチ画も描く人が殆どでした。
私もそれらを描いていました。しかし、ペンを握ることのない現在は、そうしたものまでPCの仕事になり、
手書のものは殆ど見かけなくなりました。というより、描ける人も居なくなったのでしょう。
しかし、コンピューターCGと絵画とは完全に別物で一線を画すように、手書のパースやスケッチも
別物であると私は思っています。

話が脱線してしまいましたが、絵画と違ってデータ化されたものは守れない、自分の手を離れたら、
みんなのものになってしまうということです・・・
さて、ここにアップし画像が何の企画書なのか?それについては、周りの反応があり次第、追って
報告していきます。お楽しみに。



SBT-全P(モザイク)

夢追い人 - 2011.09.11 Sun

子供の頃、100年後、或いは西暦2000年の未来を創造して絵を描く、なんていうのが
たいてい授業のなかにあって、幼いながら知恵を絞って未来の絵を描いたものだ。

高層ビルが立ち並び、車が空を飛んでいたり、宇宙ステーション行きの駅があったり・・
我々の子供のころはそうした絵を描いていたように思うが、今の子供はどんな絵を描いて
いるのだろうか?

子供の頃は、遠い未来を想像して夢を膨らませていたが、歳を重ねるごとに少し見方が
変わって来たように思う。つまり、今考えるのは近い未来の想像である。
50年先や100年先は生きているはずもなく、見ることも知ることもないとするなら、
せめて自分で確実に確認できるだろう近い未来を想像するのである。

誰もが、未来を想像し夢を抱くことはあるだろうが、通常はそこで思考は止まる。
私も想像力豊かなほうだと思われ、色々なことを夢見ては思いにふける。
そして、それを実現可能な条件を探し、実際に企画してみる。
誰に頼まれたわけでもないのに、そんな馬鹿げたことをよくする。
最近も、ある夢を実際に絵を描いている。宇宙都市を造るなんていう壮大なものじゃないが、
独立した町やコミュニティを新たに作り出す、という現実的に見れば壮大な夢だ。
可能性は0じゃないが、1パーセントもないだろう。しかし、それでも描いてみる。

こうなりたい、こういうことをしたい・・・色々な夢を誰もが持っていると思う。
それを諦めずに、思い続ければ実現することが多い。もちろん努力も必要だ。
思い続ければ、そうしたチャンスが来たときに、逃さずキャッチできるのだろうと思う。
私は、今までに色々な業種の商売をしてきた。
呉市へ良く行くことから、海を見ながらのドライブが多かった。
「いつかは、海の見える場所にホテルをやりたい」そんな思いが生まれた。
ある時、海沿いの土地の売却の話が出た。早速現地へ行き調査をした。
ここにホテルを立てたらいい、という計画を考えたが、交通や環境からして、その場所では、
どう考えても事業性が成り立たない立地だった。
まして、ホテルを建てるような膨大なお金の工面なんでできはしないことも分かっていた。

そうこうしているうち、海沿いの古いホテルが競売に出ることを知った。
経営破たんし、お客からも見放された古びたホテルである。
誰もこんな物件に手を出すものはいないだろうと思われた。
しかし、私はその立地がとても気にいっていた。海を見渡すことのできるホテルは私の夢だった。
競売の話をもちかけてきた方に、「この施設を生まれ変わらせますから、やりましょう」と言った。
そして、リニューアルを行い、死んでいた施設に命を吹き込みました。
今では、人気ホテルの部類に入っています。ただ、立地が不便であることから、
客足はいまいちといったところですが・・・

遂に夢を実現して、海沿いホテルほ手に入れたが、正直いまいち満足はしきれないでいた。
それは、もとが古いホテルであるということだ。自分が思い描いたようには作れなかった部分が
多くあった。妥協した分だけ、夢から引き算をしなくてはならなかったからだ。

そして2年ほど前、正に海沿いのホテルのプロジェクトに参加して欲しい、とのオファーがあった。
自分のホテルで不満を残していた「作る」という部分を穴埋めしてくれるような仕事であり、
私は直ぐに引き受け、全精力を注いで取組んだ。そして、その施設も今春オープンした。
旧施設の2倍以上の売上で、滑り出しは好調である。

いったん、これで海沿いのホテルを作る夢は完結したようにも思う。
夢は願わないもの、追わないものには決して現実にはならないと思う。
私が今描いている壮大な夢は、先に述べた「町づくり」である。
人が居ない場所に、あらたなコミュニティを作り出すのである。人が住むからには、雇用も必要で、
色々な生活環境を整えなくてはならない。かといって、子供の頃に描いた未来都市とは大きく
かけ離れており、むつろ人間らしい生き方のできる、人間臭い町である。
そんな構想をしている。誰かが望んだわけでもなく、頼まれたわけでもないが、
こうした町づくりが、今後は必要になってくることを私は予見している。

夢追い人には、利潤に還元できない多くの時間とエネルギーを使わなくてはならない使命がある。
しかし不思議なもので、その夢からどんどんエネルギーが供給されるために、パワーが衰える
ことはないのだ。減っていくのは、時間と金だけかもしれない・・・
しかし実現されれば、失うものとは比べもものにならない喜びが得られるだろう。
ただ、実現できないときの失望は常に背負っておかねばならない。
また、実現できない可能性は99パーセント以上であるということも受け入れなくてはならない。
それでも、夢は負い続ける価値がある。

宝くじを買わない統計学者 - 2011.09.04 Sun

先日、読書の秋ということでアマゾンで3冊本を購入したと書きました。
まず、1冊目を読み終えました。「ヤバイ統計学」カイザー・ファング著です。

少し難しい部分もありますが、いろいろな事例を元に統計学者がそれらにどう取組み、
間違いを正し、問題解決しているか?また、一般的な概念や観念が如何に間違っているか、
といったことを分かりやすく解いています。私にとっては、とても意義ある本でした。

自負ではありますが、私自信が統計的思考型人間であるから、理解はしやすかったと思います。
本ブログのタイトルで「宝くじを買わない統計学者」としたのは、本書の中でそう書いてあった
ことと、私自信が宝くじを自らのために買ったことがない(買うことで期待しない)ためです。
カナダでの例だと、ロト6が当たる確立は、毎日1カナダドル(約70円)ずつ買ったとして、
当たるのは、2万7000年に一回の割合で、これは毎日飛行機に乗って航空事故に遭遇するのと、
ほぼ同じ確率だそうです。
そんな極めて稀なことに人々は「当たるかもしれない」「事故に遭うかもしれない」と思いを
めぐらせ、宝くじを買い飛行機に乗る際には神様に安全を祈ったりします。
統計学者は極めて稀なことまで意識しません、そんなことまで意識していたら生きていけない
からです。だから飛行機に乗ることに何も躊躇せず、宝くじには全く興味を示さないのです。

ツィッターでも書きましたが、そんな稀な事例よりも大震災や原発事故といった多くの国民の
生命や国の経済に関わる事象の方が、遥かに遭遇しやすいことを知らなければならないと思います。
昨晩、深夜まで眠れずEテレの「アメリカから見た福島原発」の再放送を見ていた。
如何に、日本の原発がお粗末で安全性に欠けているかがよくわかった。
非常用発電機の設置基準や、ベントに予備がないことフィルターがないことなど、先進国の設備
とは思えないお粗末な施設だ。
そこで、なぜそうしたものが見過ごされたか?ということについて、原子力安全委員会の原子炉
安全基準専門部会の村主会長がテレビで「M9の地震というのは経験がない、例えば隕石が落下する
ということはことはある、しかし確率が低いから考えなくていい、それと同じくM9は考えていない」
と平然に言う。

全くお粗末な理論だ。インタビュアーも納得したのか反論をしない。
大地震の確率は、ここ数年の間に環太平洋でチリやニュージーランドでも起きており、実はかなり
高いと思われる。特定の場所で数百年に一度(中には1000年に一度ともいうが)は起きると言われる。
福島原発は既に40年間操業していることを考えれば、今年でなくとも、過去・未来に渡って大震災
に見舞われる確率はかなり高いことは容易に想像できる。
仮に建物を破壊できるほどの隕石が毎年落ちたとしても、原発施設にあたる確率は極めて少ない。
大地震は一気に数百キロメートルの長さに渡って大津波を引き起こし破壊するのだ。
隕石が何億個落ちようとも、同様の破壊力はない。
地震による災害は過去に何度も報告されているが、隕石の被害なんて殆ど聞いたこともない。
そんな無視しても良いものを喩えにして、未曾有の出来事だからやむを得ないと言う無責任さに呆れる。
もし、アメリカと同様の設備であれば、非常用電源が可動し原子炉の冷却を行えただろうし、もし圧力
が上がってもベントが開いて圧力を抜けただろうから水素爆発はなかっただろう。
ようするに、福島原発事故は人災であるということだ。

統計学的思考というのは、隕石という要因は宝くじや飛行機事故と同じく無視してもいい要因であり、
大地震というのは、可能性として十分考慮すべき事項である、ということだ。
統計学者や科学者というのは、数字でしか物事を捉えないカタブツ人間のごとく思われがちだが、
全く逆である。統計というのは、曖昧を容認し数字のばらつきや揺らぎに注目している。
そして、偶然を数字的に受け入れている。より人間的で公平・平等で多様性がある人たちだ。
しかし、偶然の中の偶然、つまり飛行機事故に遭遇するなどというものは、数字でもって危険性を
アピールすることは無意味で、それは「運命論」的な話であることを知っている。

本書はそうしたことを、再認識させてくれた。
興味がある方は是非読んでみてください。ものの考え方、捉え方が少し変わるかもしれません。

ちなみに、Eテレの「アメリカから見た福島原発」のUSTがあったので記しておきます。
http://www.dailymotion.com/video/xkjjkj_20110814-yyyyyyyyyyyyyyy_news

生命の神秘 - 2011.09.02 Fri

孫を見ていると、本当に可愛いといつも思う。時々、自分の子供に対してはどうだったろうか?
と対比して考えることがある。子育ての時というのは、いろいろと大変でただ「可愛い」とばかり
は言っていられなかったようにも思う。

母親が我が子のことを「腹を痛めた我が子」などというが、孫の場合は出産の苦しみはないから、
そうしたことを理由に可愛いとはいえない。それでは、何故孫がこうも可愛いのか?

その疑問に一つの答えがある。
子供というのは両親の卵子と精子の結合によって、細胞分裂を繰り返し形成されていくのは、
誰もが知るところである。では、その卵子と精子というのは両親が作り出したもの、と広く一般的に
認識されているが、厳密にいえばそうではないようだ。
思春期になると、女性は卵子を作り出し男性は精子を作り出すが、それらを作り出す生殖細胞という
のは、生まれながら誰もがもっている細胞である。記憶が少し曖昧だが、女性には卵子のもとになる
400万個の生殖細胞が備わっていて、そのうち4000個が卵子となり、そのうち400個が排卵されるらしい。
その生殖細胞は生まれたときから備わっているもので、実は母親の胎内で受精卵が細胞分裂して、
胎児を形成する前にできるらしい。つまり先に生殖細胞が出来て胎児が人間として形成するのを待ち、
各器官や生殖器が出来た段階で、そこへ移動して入っていくらしいのだ。
平たく言えば、次の次の世代であるつまり孫の代である生殖細胞は、自分のあかちゃんよりも先に
形成され、それを受け継いでくれる赤ちゃんの成長を待っているということだ!

私は、専門家ではないので表現方法や数値に間違いがあるかもしれませんが、その点はお許しください。
つまり、妊娠によってお腹のなかで孫の代のを生殖細胞を作り、自分のDNAを受け継ぐ作業を行っている
ということなのです。生命というのは、あらためて凄い仕組みを作り出していることに驚かされます。
隔世遺伝と言う言葉も、こうして考えるとうなづけます。
そして、腹を痛めていない孫が我が子同様に可愛い理由も納得できます。

もう一つ重要なことは、卵子の元の数が400万個として、精子は生涯で1兆個以上できるといわれている。
その、一つずつが出会う確率の分母は天文学的な数値であり、奇跡的な出来事なのである。

こうしてみると、生命というのが奇跡的な「選択」でもって作られたかのようにみえるが、実は選択だけ
だけでなく膨大な排除によって出来ているのです。卵子と精子も膨大な排除でもって、生き残った強い
ものから最終的に選択される。受精卵は膨大な回数の細胞分裂をするが、大半をアポトーシス(細胞の死滅)
を起こして、不要な細胞、弱小な細胞、病的な細胞などをどんどん排除していくのです。
人間の手は、もともと手と手の間にヒレがあり、胎児の成長段階でもその名残りがあります。
しかし、その部分の細胞をアポトーシスによって捨てていき、必要なものだけを残していくことで、
5本指の手を我々は得るのです。

我々は、天文学的な数値の確率のもと誕生して、その後も天文学的な数の排除を行って、その残った部分で
体を形成して生きています。生きている今現在も、多くの細胞は数週間の寿命を終え死に続け、新たな細胞
が誕生しています。私たちが生きているということは、そんな気が遠くなるような作業の結果なのです。

自分が生きること、そしてその命を次の代へ繋いでいくこと、というのは、我々が頭の中で考えることなど、
かなり薄っぺらでくだらないことなのかもしれません。自分に与えられた使命というのは、宇宙や神から
与えられた神聖なものであるのだろうと、つくづく思うのです。

I市のF君 - 2011.09.02 Fri

一昨日、N社のIさんのことを書いたが、それと似たような話で、I市のF君のことも
思い出したので、書いておこうと思う。

今年初め、取組んでいた現場にて、建築作業をしている男性から突然声をかけられました。
「筒井君、久し振り・・」と。彼はヘルメットを被った小柄な同年代の男性だ。
しかし、やはり誰なのかさっぱりわからない(汗
それなのに、つい出てしまう言葉「あぁ~久し振り」(なんといい加減な人間なんだ、笑)
あまりに親しげに声かけられると、「どちらさんですか?」となかなか聞けないものだ。
相手の言葉や口調である程度推測がつく。「筒井君」と呼ぶのは同級生くらいしかいないはずだ。
で、また誰であるかを探るような会話が続く。「今何処に住んどるん?」と聞くと、I市だと答えた。
となるとこの近辺の人、やはり、中学か高校のときの同級生に違いないと確信する。

奥まった目、どこかぼんやりと視点の定まらない目つき・・・・多分、小中学生の時のF君という
人物ではないか?と察しがついた。会話のなかからも、それらしい情報が得られ確信した。

しかし、F君とは中学卒業以来会った記憶がない・・・同窓会にも顔を出したのかどうかわからないが、
目立たない男だったので、兎に角記憶がない。
つまり、約40年振りの再会だ!!そんなもん、初恋の人だって絶対にわからない(笑。
それなのに、F君は私が直ぐに誰であるかがわかった??
私が芸能人や著名人でなんらかのメディアなどに露出する有名人なら理解できるが、私は全くの
無名のフツーゥの人間だ。
そこで思ったのが、良し悪しは別として、私は昔から顔が変わらないということではないか?
ということだ。これは、同級生からもよく言われる。
おまけに、少し濃い顔なので印象に残りやすい、というのもあるかもしれない。
覚えてもらえるのは有難いことだが、私はなかなか覚えられない。
このギャップはいつまでも続くだろうな。

NEW ENTRY «  | BLOG TOP |  » OLD ENTRY

プロフィール

tsutsui-s

Author:tsutsui-s
広島県在住。
複数の会社と店舗施設を経営。自分に出来ないことはない、という自信過剰ぎみの精神力を糧に、新しいものに挑戦し続ける中年です。

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

未分類 (1)
季節 (18)
プライベート (67)
震災と復興 (5)
ブログについて (9)
モノローグ (130)
バイク (63)
エッセイ (35)
仕事 (16)
趣味 (4)
妻の闘病記 (11)
政治・経済 (11)
家族 (5)
禁煙物語 (7)
入院日誌 (13)
自然災害 (1)
スポーツ (4)
カープ (5)

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。