topimage

2017-10

スポンサーサイト - --.--.-- --

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

未来のために・・ - 2016.12.17 Sat

 私の住む場所のすぐ南隣には山陽新幹線が通っており、東側には一級河川がある。
一級河川とはいってもそれほど川幅は広くない。
この川を新幹線がまたいでいるわけだが、川の中には1本の橋脚がある。
数年前から、この付近の陸上の橋脚についてはずっと補強工事がされてきた。
橋脚のピッチは色々だが短いところで10mくらい。
これが南北に2本ずつ立っている。
全ての橋脚には厚い鉄板が巻かれていった。
山陽新幹線が開通したのは、今から41年前で寿命とされる40年を超えたことと、
当時の耐震基準と現在の基準が大きく異なることからの対応だろうと思われる。
それにしても、山陽新幹線だけでも路線距離553kmもあり、橋脚の本数は膨大な数。
平均15mピッチとしてもWの橋脚がメインだとして単純に7万本以上になる。
橋脚の補強だけでも膨大な時間とコストがかかることになる。

 陸上の橋脚の補強はこの付近において数年間で大方が終了した。
気になっていたのは、川の中にある橋脚。
どうやって補強工事をするのか?と思っていたら、2カ月ほど前からその作業が始まった。
橋脚補強工事1
 道路側から進入口となるステージを作る。

橋脚補強工事2
 それを橋脚へ向けてどんどんと広げていく

橋脚補強工事3
 そしてついに橋脚に到達
多分、橋脚をぐるりと取り囲むようにステージを設置するのだろう。

 ここまでの工事で約2カ月間。
工事は来年6月頃までかかるそうだか、私は直ぐに金額換算をしてしまう。
土曜日も作業をしているので、工事日数は約200日くらいだろう。
警備員、作業員、監督、重機の運転車など毎日十数名が作業している。
現在は仮設工事だが、今後本工事が始まればもっと増加するかもしれない。
いずれにしても人工数は延べで3000人くらいか。
とすると人件費だけでも約5000万円。
事前の調査費や設計費など現場外での人件費も発生するし、
重機の使用料、仮設材費、そして橋脚補強の本工事費などを考えると約1億円くらいだろうか?
たった一本の橋脚補強で1億円・・・
山間部の谷あいや、もっと川幅の広い場所など困難な部分も沢山ある。
それらを全部補強して延命したとしてあと何年もつのだろうか?
40年は無理だろうから20年~30年といったところか。
東海道新幹線においては、1959年に着工し先の東京オリンピックの開催年度である1964年に開業した。
既に50年以上経過しており、当然補強工事も施されているだろうけれども、
いつまで使い続けるのか?と考えると、私たちの次の世代までは持たないと予測される。

 高速鉄道は高度成長期時代を象徴する公共事業の一環としてすすめられた。
高速鉄道だけでなく、高速道路や、瀬戸大橋など島嶼部への橋の建設など大規模なインフラ整備が
一気に進んだのもこの時期だった。
当然ながら、それらの寿命が一気にやってくることも想像に容易い。
それらを延命すべく、補強や補修工事が行われているが、膨大なコストがかかることは間違いない。
その費用をだれが負担していくのか?
今では殆ど人が住んでいないような山間部や島などでも多くの橋や道路がある。
あまり車が通らないからという理由で補強をせず放置することはできないだろうし。
 そうした問題の中である現象が起きている。
私たちが普段利用している道路で少しずつ景観が変わりつつある。
それは歩道橋が姿を消していることだ。
歩道橋の維持管理は各自治体によるが、その負担が大きいことから次々と撤去されている。
歩道橋は撤去されても、横断歩道を使えばたいした問題ではない。
高齢化が進む中、歩道橋の利用者は極めて少ないのが現状で、撤去は景観上、維持費上からも
適切な判断だと思う。
しかし、橋や高速道や鉄道においてはそうはいかない。
未来永劫そこにあり続けるはずと誰もが思っている。
もちろんなくては困るのも事実。
しかし、これ以上作る必要がないことも事実じゃないだろうか?
スポンサーサイト

10年先 - 2015.08.21 Fri

 就職の面接官の質問やコンサルで経営者に対する質問でよく耳にするのが
「10年後はどうなっていたいですか?」という質問。
私も昔は10年というスパンでよく物事を考えていた。
しかし、このところそのスパンが5年に縮まった。
10年先というのは、いろいろな意味で現状維持は危ういかも?とふと思うからだ。

 未来の自分を想像してそれに向かって突き進む。
これはとても大切なことだと思う。
ただ、前に進み続けることは危険でもある。
どんなものも動いている時というのは不安定で危険なものだ。
今の場所に留まり、しっかり腰を据えて地固めすることも大切だろう。
未来を遠くに見過ぎると、単なる夢で終わってしまうかもしれない。
それよりも確実にたどり着ける未来へ確実にたどり着くことが大切。

 10年先を考えなくなった一方で、10年前の自分が何を考えていたかが気になる。
10年前に描いていたビジョンは、今の現実と比べてどうだろうか?と。
いくら考えても、それが思い出せない。
10年前は今以上にその日その日を生きるのがいっぱいいっぱいで未来のことなど
考えていなかったような気もする。

 では、もし10年前の自分に出会えるとしたなら何を話したいだろうか?
忠告しておきたいことは沢山ある。
この10年で失敗や間違いは沢山あったから。
それらを回避できたなら、きっと今はもっと先を歩いていただろう・・と思うのだが、
一方で、幸運に後押しされただけの今よりも薄っぺらい人間になっていたかもしれないとも思う。
いくつもの失敗や壁や問題は、それを超える理由があったのだろうと思う。
だから10年前の自分には会ってはならない。
きっと抜け道を教えることに躍起になってしまうだろうから。

 そして10年後には、また今と同じようなことを考えているのだろうと、思う。
ただ、前に進んでいなくてもいいから穏やかな時間を過ごしていたいと、思う。

無駄という必要 - 2014.05.11 Sun

 人間ほど不合理で非効率的な生き物はいない。
しかし、だからこそ人間なんだと思う。
もしも、生きる上で必要なものだけを得て、必要な食糧だけをとり、必要な活動だけをすれば、
人間社会は崩壊する。
私たちは不要なものに囲まれ「無駄」と共に生きている。
それらのために、あくせく日々を生きている。

 今、ある住居のプランに取り組んでいる。
必要な広さ、必要な収納、必要な家具、必要な通路幅、それらを如何にうまく組み合わせ、
動線を少なく快適に生活できる空間を考える。
しかし、必要なもので組み立てられた空間というのは魅力に乏しい。
だから、そこにあえて「無駄」を加える。
無駄と思えるスペースを作ったり、無駄と思える大きさの家具や建具をつけてみる。
通路幅を必要以上に広くしてみたり、必要のない段差や天井の凹凸をつけてみたりする。
そうすると空間が生き生きとして、何かを語りかけてくるように思える。

 食事だって、高級レストランでいただく料理と食堂でいただく料理と味や量にさほどの
違いはないかもしれない。しかし、他のお客さんの話声が聞こえないくらいにゆったりとした
空間で、大きなテーブルで、きれいな大きな器に盛りつけられた料理はそれだけで
美味しく感じてしまう。
その、一見無駄なものが引き立て役となっているのだ。

 私は空間デザインをするうえで、時間をかけて考える場所はエントランスと通路です。
最初にその空間に入る場所、そして目的の場所へと導く通路、ここで90%くらいは
想像力によって決定つけられると思う。
当社施設においても、無駄と思える広さの通路があり、また通路脇は玉石などを敷いているため
通れない無駄なスペースもある。
しかし、そこを歩いて目的の場所へ行くとき、期待が生まれ心が高揚するような、
そんなスペースであるためにある意味無駄が必要だと思っている。

 目的さえ明確であれば、無駄というのはとても重要な役割をもつと思う。
生きる上でも仕事の上でも人間関係でも、芯がしっかりしていれば無駄は必要だと思う。
最近ではビジネス手帳だけでなくスマホやパッドに予定表をぴっちり入れるビジネスマンも多い。
ビジネスセミナーでも、これらアイテムをうまく使って予定や計画を明確にして
それを確実にこなすことが大事だと教える。
彼らは空白の欄があると不安になり、何か予定を詰め込む。
ガチガチの予定の中で動く人。確かに立派だが、何か魅力に乏しい。
無駄というエッセンスを少し加えて、余裕を持って活動すれば実はもっと近道だったりもするものだ。
一番ダメなのは、明確な目的や目標もないのに無駄な時間を過ごすこと。
頑張っていると思い込み、無駄を容認すること。
無駄というのは厳しさの中にあって必要性を発揮するということ・・・

もう一人自分が欲しい - 2014.04.17 Thu

 この一年は「捨てる」というのがキーワードになりそうだ。
昨年末、思い切って色々と身の回りのものを処分した。
そして、この春事務所を2階から1階に移転したことに伴い多くのものを処分中だ。
 
 とにかく、必要なものだけを選別しよう、と思うのだが、その選別においても
一通り目を通さなくてはならないために、相当な時間が必要になる。
多くは書類やファイル類や書籍や資料だが、その量が膨大な量。
なんせ数十年分のものだから、いちいち中身を確認しつつ選別していたら
いくら時間があっても終わらない。
ある程度ざっくりと、ここのものは10年以上手を付けていないはずだから、
全て不要なはず・・・と思ってゴミ袋へ詰めていくが、その際にちょっと目にとまり、
つい中身を見たりすると、これがとても面白かったりしてついそれに気を奪われる。
昔はこんなことをしていたんだ・・・という記憶がよみがえる。
なんだか、今は楽している気さえするが、それは年齢の所為かもしれない。
昔は、何でもがむしゃらにそして必死になってやっていた。
いつも思っていたことは、「もう一人自分が欲しい」ということだった。
同時にいくつかのことに取り組んでいくと、物理的に時間が足りないことが多かった。
もう一人自分が居ればなんてかなるのに・・・といつも思った。
何もしてくれなくてもいい、代わりに睡眠をとってくれる自分が居れば、
今感じている自分は寝ずに仕事ができるのに・・と思ったものだ。

 過去の資料や手帳、ファイルの中にそうした痕跡がいくつも見つかる。
もう不要なものなのでその殆どを捨てたけれども、本当にすべて不要なのだろうか?
そんな不安に襲われる。
資料としては不要でも自分が歩んだ証が消えるような・・・
記憶の中でも殆どが消えて、そして記録も消えていく・・・
しかし、それでいいんだと思う。
時間は、人生は、前にしか進まない。

 数か月後には自宅の断捨離も実施することになる。
それが終われば、必要なものだけに囲まれて生きていくことになる・・・はず?。
あくまでも「もの」において必要なものだけ、ということではある。
人において「必要な人だけ」という選別はできない。
なぜなら、それをやろうとすれば私自身も他人からその選別の対象にされてしまうからだ。
全ての人はなんらかの意味を持つ、それゆえに何らかの必要性・必然性がある。

 そういいつつも、長い時間をかけて人に対しても選別を行ってきたのだろうと思う。
人は物と違って、そこに存在し続けるわけではない。
私を嫌う人は距離を取ったり離れていったりしただろうし、私もそうしてきた。
しかし、こちらがそう思っても相手がそう思わないことも多い。
利害上のこともあったり、性格上のこともあったり、いろいろな理由で人は面倒だと
思うことが多かった。
そうした時にも、もう一人自分が欲しいと思った。
人間関係だけをうまくやってくれる自分がいてくれたら、どれだけ自由があるだろうか?と。
不自由なのは人が居るがゆえだと思っていた。

 そういえば、最近それをあまり思わなくなった。
この歳になってやっと自己一致できたのかもしれない。
別の何かを演じる自分を必要としなくなった、ということか?
思うがままに生きる、というと強欲でワンマンな生き方になってしまうだろう。
しかし、人のことも気遣ったうえで、自分が気持ちよく生きるということを考えると、
決して不自由ではないし、不満もないように思う。
思いと行動がある程度等しい生き方、それが今の私が目指すものかも。

想像できる未来とできない未来 - 2014.04.05 Sat

 昨日、ある仕事の依頼のキャンセルの連絡があった。
それはある事務所を今月新設することになっていて、現場調査や基本設計プランなど
を済ませたので、工事にかかる準備をしていたところだったのだが、そこの家主が
突然「貸さない」と言い出しその話が白紙に戻った。
 しかし、私はなんとなくそうなるのではないか?という予測もしていた。
なぜなら、プランを考えたものの、それが頭の中で明確にイメージできないからだ。
「あぁ~やっぱり」と思った。
われわれの仕事はまだ現実にない立体や空間などの3次元のものを、設計図という形で
平面に書き起こす。紙媒体の表現にはどうしても現実と大きな隔たりがある。
しかし、頭の中ではある程度正確な立体や空間を想像によって描いている。
そのイメージは、どんな写真や完成予想図よりもリアリティがあるものです。
 
 そのイメージを正確に、明確に思い描けないときそれは現実化しないことが多い。
以前ここでも書いたが、「すべてのものは2度作られる」という言葉もそれを裏付ける。
頭の中で創られて現実に造られる。この順序は決して逆にならない。
つまり頭の中で創られないものは、現実にも造られないということだ。

 昔、ある人からこんな話を聞いたことがある。
飛行機や新幹線などに乗る時、必ず到着した場所での自分の姿を想像すること。というのだ。
例えば、空港到着後手荷物受取場で待っている自分の姿や、新幹線を降りてホームの階段を
上がっている自分の姿を想像するのだ。
これはとても容易いことで、誰でも想像することができる。
ところが、いくら想像しようとしても、全く自分の姿がイメージできないときがあるという。
その時には、絶対にその交通機関を使用しないほうがいいという。
想像できないことは起きないことが多いという。
交通機関が実際に事故を起こす確率は極めて少ないが、乗車中なんらかのトラブルに見舞われる
かもしれないし、急病を発症してしまうかもしれない。と言うのだ。

 未来のいつもの自分の姿が想像できないときは気を付ける。
私はその習慣がすっかり身についていると思う。旅行するとき、仕事で出張するとき、車やバイクに
乗るとき、行先での自分の姿をイメージすると同時に、帰宅後の自分の姿を想像する。
明確にイメージができれば安心する。

 迷信だと言われればそうだと思うが、このイメージすることというのは他にも重要な役割も持っている。
将来何かをしたいと思うこと、住みたいと思う家や場所、なりたい状態、得たいもの・・など
頭にイメージしていればいずれそれは現実化するということです。
逆にいえば、悪いイメージを常に持っている人は悪い出来事に遭遇することが多いかもしれません。
とにかく、夢や理想は常に強くイメージすること、これがとても重要だと思うのです。
 
 近年スポーツトレーニングでもよく取り入れられるイメージトレーニングもその一つかもしれません。
完成形を頭の中で強くイメージするだけで、やみくもに練習するよりもかなり早く上達するようです。
そういえばバイクも同様ですね。
基本一人で乗るバイクでは手取り足取り誰かに教わりながらライテクを上げていくことはできません。
はっきりいって、殆どがイメージトレーニングですね。
バンクした時の加重移動の感覚、目線が路面に近づくイメージ、アクセルオンでのトラクションの感覚、
体重移動した際の手足への加重、などなど断片的な経験によるイメージを結び付けて、
より深くバンク、早い速度で走る際に全体的にどのようなことが起きるのか正確にイメージをする。
そのイメージが明確にできればできるほど、それに近いものが実際にできると思っています。

 潜在意識の中にある未来を捉える、というのはある意味オカルトチックな話ではあります。
想像は無限に存在するから、どれが現実と結びついているのかはわからない。
しかし、想像から伸びた糸を手繰りよせるとそのどれかが現実へとつながっていることは間違いない。
ひょっとしたら、何本かの糸が繋がっていて、それを私たち自身が選択しているのかもしれない。
ならば、想像の世界は常に崇高な世界でありたいものです。
「想像力」こそすべての源だと思います。


同類 - 2014.03.29 Sat

 最近の話題のニュースと言えば、みんなの党渡辺善美代表の8億円疑惑と小保方晴子氏のSTAP細胞捏造疑惑だ。
こり二つの「疑惑」にはある共通点がある。それは度々聞かれる「同類」という言葉。
既に疑惑ではなく嘘が確定した、東京全都知事の猪瀬氏の5000万円収支報告虚偽記入と、
佐村河内氏のゴーストライター問題が、それぞれ渡辺善美氏と小保方晴子氏の問題に酷似している
ことから同類の臭いがする、ということがよくテレビキャスターや評論家の口から出てくる。

 一昨日渡辺善美氏はインタビューの中で、自分は猪瀬氏とは明らかに違うということを熱弁していた。
何が違うかといえば、猪瀬氏は現金で受け取ったが自分は個人名義の銀行口座に振り込んでもらった。
というところが違うらしい。個人の口座に振り込んでもらったから個人で借りたという証拠だという。
猪瀬前都知事が都議会の集中審議の場で5000万円の現ナマが入れたという鞄に入らず焦っていた姿は
何度もテレビで報じられた。
渡辺善美氏は5000万じゃなく桁が違う3億+5億だ。現ナマで貰おうものならそれを運ぶために
何人もの人と乗用車ではなくワゴン車などを用意しなくてはならないだろう。
DHC会長だけではなく、他からも同様の選挙資金と思われるお金を受け取っているのではないか?
という疑惑が出てくるのも当然。まぁ5000万円くらいなら現ナマで持ち帰ったかもしれない。
渡辺善美氏が猪瀬氏とは違う、などと訳の分からない弁明をしているが、
見る側からすれば確かに違うと思うだろう。渡辺氏は桁が違う、あなたの方が遥かに悪質だと。

 もう一つの同類と叩かれている小保方晴子氏。しかし、彼女に対しては温かく見守るような意見も多い。
それは同類と言われる佐村河内氏と比べると、雰囲気や容姿が真逆だということもあるだろう。
女性であり、若くて美人であるということは、いろんな場面で大きな武器であることには違いない。
しかし、私はそうしたことは別問題として、どうもこの小保方氏の問題については疑問が多い。
論文の引用問題や写真の転用など、直ぐにわかってしまうようなことであるはずなのに、なぜ
やってしまったのか?このSTAP細胞の研究論文には14人もの研究者や知識人が関わった共同開発の
はずなのに、なぜ専門家である他の人たちはそうした問題に気が付かなかったのか?
STAP細胞発見の発表の際、メディアに小保方氏が大きくクローズアップされたため彼女一人の問題の
ように言われるが、何か裏があるように思えてならない。
佐村河内氏のゴーストライター問題はスタート時点から新垣氏と共謀して行ったこと。
それゆえに、どんなに弁明しようとも誰も同情するも擁護するものもいなかった。
しかし、小保方氏に関してはメディアだけでなく国民の多くが多少の期待を持っている。
実際に証明されれば医学界において革新的な発明であり、医療現場で多くの命を救える技術に
なる可能性が高いから、STAP細胞は存在してほしいという期待がどこかにあるのだろう。
第三者によってSTAP細胞の再現実験ができれば、他の論文の引用や写真捏造や転用の問題など
たいした問題ではない。それらは、作業を簡略するために行われた手抜き程度になるだろう。
もしすべてが嘘だったとすると、これは簡単にばれる嘘。
なぜなら実際にSTAP細胞が作れないし、他の科学者にもそれができないからだ。
捏造だとしたら、それによる社会的制裁や責任問題、自分の今後の人生そのものの問題、それらを
考えると、捏造するメリットや意味は全くないはず。
そう考えるから、ひょっとしたらちゃんとSTAP細胞は出来ていたのではないか?そんな期待を寄せるのです。

 私たちは誰かと「同類」扱いされたとき、嬉しい時と悔しい時があります。多くは後者でしょう。
いっしょにしてくれるな!そう思って、その違いを探し必死になって抗議する。
しかし、私たちは「人間」という分類においてすべての人間は同類なのでしょう。
悪党も善人も実は大差ないのかもしれません。
善人と言われる人であっても、生き物を食するならば、動物界においては悪党の他なりません。
嘘をついたことのない人間なんていないでしょう。
ただ、その嘘が大きな影響を及ぼしたかどうか?その違いだけで、やはり人間は全て同類だと思う。

無意識の呪縛 - 2014.03.08 Sat

 先日、今年初の美容院へ行ってきた。
2ヵ月以上も髪を切らないと、毎朝洗面の前に立つたびに鏡に映る鬱陶しい姿に
ため息がでてしまう。
夜8時頃に終えて、シャンプーもしっかりしていただいたので頭はすっきりした。
美容院へ行った日は当然お風呂に入った際にシャンプーはする必要はない。
今回も、お風呂に入って湯船に浸かりながら『今日はシャンプーをしない日・・』と
何度も呪文のように唱えた。
なぜか?っていうと、いつも美容院でシャンプーをしたにも関わらず、ついシャンプー
をしてしまうからだ。今回はその失敗をすまいと思い、何度も唱えた。
 湯船からあがり、いつものようにシャワーを出し・・・・
そして・・あ・・あたまにかけてしまった!
あっ、やってしまった・・・と思ったが後の祭り、頭はびしょびしょ・・・

 他にも最近こんなことがあった。
ラーメン店で昼食をとっていた。そのお店では決まってラーメンに擦りゴマ、ラー油
ラーメン元出汁を入れて食べる。なぜかその店ではコショーは入れない。
入れる量は適当だが、無意識のうちに次々と入れていくが、大体一定量をいれているようで
いつもの味になる。
いつものようにそれらを入れて、レンゲでまずスープを飲む。
あれ?いつもと味が違う??なぜだろう・・・
入れたものの容器を確認してみる。擦りゴマ・・ラー油・・・・餃子のタレ!
「まったくぅ」と思わず言葉が漏れてしまった。
ラーメン元出汁を入れる予定が、同じ容器の餃子のタレを入れてしまった。

 日常というのはその殆どが無意識によって支配されているように思う。
お風呂ではシャンプーだけではなく、体を洗う時の順番も正確に決まっていて無意識のうちに
それを毎回繰り返す。私は、必ず左手から洗う習慣がついている。
歯を磨くときには、必ず下の前歯から磨く。これは何十年も続いている。
高校生の頃、男子生徒は度々学校で歯のニコチン検査が行われた。
タバコを吸っていると下の前歯にはニコチンが付きやすく、それを落とすために毎日念入りに
磨いた。その癖が40年間続いている。今は、禁煙をしているのでニコチンはつかないのだが、
それでも念入りに下の前歯を磨いてしまう。
 たまにやるちょっとかっこ悪いことがある。
家内の車や会社の車など自分の車以外の車に乗るとき、つい自分の車のリモコンキーを向けて
開錠ボタンを押してしまうこと。会社のトラックにそれをやったこともある。
トラックを見ればリモコンキーじゃないことぐらいわかりそうなものだが・・・
あたりを見回して誰にも見られていないことを確認してほっと胸をなでおろす。
 
 そんなかっこ悪いことは別としても、日常の行動そのものも無意識に行われていることばかりだ。
車やバイクの運転だって、いちいち操作の一つ一つを意識しているわけでもないし、カーブを曲がる
時にその動作を意識するわけでもない。それでも普通に運転操作ができる。
よく、ぶつけたり事故などした場合、ちゃんと意識して運転しないから、みたいなことを言うが
だれも運転に意識を向けて乗っている人はいない。
意識しなくてはいけないのは、周りの状況であり運転ではない。

 日常生活も仕事も娯楽も食事や睡眠も殆どが無意識のなかで何事もなかったかのように完結している。
その無意識(習慣)の呪縛から私たちは簡単には抜け出せない。
仕事でも従業員に対して口癖のように「意識を持って取り組め」という。
しかし、意識せずとも仕事はできる。そしてその方が楽でトラブルも少ない。
それを知っているから、だから言われても「意識」することを殆どの人はしない。

 最近、ある無意識からやっと解放されつつある。それは言うまでもない喫煙だ。 
タバコを吸いたくなくなったという意味ではない。その欲求は残っている。
禁煙を始めたころ、食後や休憩時などタバコを吸うタイミングの時がやってくると、
タバコを探そうとしたり、ライターを手にとったり、灰皿を探したりする行動が一瞬起こって、
そのたびに、そうか・・・やめたんだ・・・と、ガックリと肩を落としていた。
その無意識の行動がやっとここ最近なくなった。

 無意識の行動、つまり習慣から抜け出すのは時間と努力が必要だということを痛感する。
思えば、一昨年前東京へ「7つの習慣」のライブセミナー受講へ行った。
あれ以降、自分の中でどれだけ良い習慣を身につけ、悪い習慣をなくしただろうか?
残念ながらあまり多くを思い出せない。
 
 妙な言い方だけれども、無意識を変えるために意識する、それをやってみようと思う。
あまり難しいことからではなく、話し方一つや、時間の使い方や、歯磨きの順番や(笑)
何か試せることをやって自分の中で変化を感じる。
そんなことをやってみたくなった。
それが新しい無意識になり習慣になっていくとき、少し違う自分を発見できるかもしれない。
楽しみだ。

期待 - 2014.02.13 Thu

 ソチオリンピック開催後、多くの人がテレビの前でメダル獲得を期待する。
スノーボードのハーフパイプでは、平野歩夢君15歳が銀メダル、平岡卓君19歳が銅メダルと
快挙の結果を残し正に日本人の期待に応えた。
スポーツはメンタル的な要素が強く、単に技術があるだけではなかなか勝てない。
本番でどれだけ実力を発揮できるかが大きな勝敗の分かれ道になる。
そうした意味において、15歳と19歳という若さにおいては経験値もないからかなり不利なはずである。
しかし、二人とも終始笑顔で楽しんで試合に挑んでいた姿が印象的だった。
大舞台でリラックスして楽しんで挑戦できる・・・これが二人にメダルをもたらしたのだろう。

 一方で、メダルの期待が高かった、ジャンプ女子の高梨沙羅さんは奇しくも4位にとどまった。
そしてモーグルの上村愛子も残念ながら4位にとどまった。
今まで7位・6位・5位・4位と順位を縮めて「なんで一段一段なんだろう」と涙した4年前。
一段一段というジンクスがあるならば、今回は3位銅メダル。これで引退する・・・
というシナリオは本人のみならず、誰もがそれを願った。
そして挑んだ最後の滑走・・私も見ていて、完璧!早い!メダル間違いなしだ!と思った。
しかし、結果は4位。審査方法云々の問題もあるが、とても残念だった。
上り階段の4段目は踊り場だったんだな・・・と思った。
フィギア団体戦でも、期待の高かった浅田真央が3回転を失敗し転倒した。
それが原因ではないが、結局メダルを手にできなかった。

 期待以上の結果を残す人、期待以下の結果を残す人。
見る側の人は「期待」を基準にして功績をたたえる風潮がある。
メダルを取った人もそうでない人も、あるいは予選で敗退した人も、誰もが全力で戦ったはず。
メダルを期待された人は、その期待が大きなプレッシャーになりメンタルに影響を及ぼす。
それゆえに、自分の実力を出し切れないことが多い。
 スポーツは確かに勝ち負けの世界だけれども、それだけに焦点を合わせるとなんとなく
つまらなくなってしまう。見る側、応援する側はもっと視点を変えてみることも大切だと思う。

 人は、この世で生を受けた瞬間から「期待」をされる。
とりあえずは、元気に育ってほしい。病気をしないでほしい。優しい人間になってほしい。
など基本的な要求を期待する。
やがて成長に合わせて、強い人間になってほしい、勉強ができる子になってほしい、
有名大学に進学してほしい、スポーツ選手になってほしい、芸術家になってほしい、出世してほしい、
期待は限りなく続く。
しかし、「期待」という言葉は実に無責任な言葉だ。
自分に対する「期待」というのは、いつもそのレベルがかなり低いのに、他人に対しては
途方もなくレベルが高い。
 自分に対して、過去にどれだけの期待をしてきただろうか?
~なりたい、という期待を持てば、それは目標になり努力を必要とする。
そんな苦労はあまりしたくはないから、これくらいでいいとか、こんなもんだろう、と適当なところで
折り合いをつけて満足することにする。
そんな人間に限って他人に大きな期待をして、それが達成できなければ落胆する。
実に身勝手で無責任な思考だ。

 自分の子供や部下や後輩などに何かを期待するとき、まずその要求が自分に対してどうなのか?
ということを考えなくてはならないだろう。自分のことを棚にあげて期待だけはしてはいけない。
自分がそのレベルに値しないなら、純粋に応援し援助することを伝えるべきだろう。

 無茶な期待をして、結果に落胆する、それはとても残酷な行為だと思うのだがどうだろう?

NEW ENTRY «  | BLOG TOP |  » OLD ENTRY

プロフィール

tsutsui-s

Author:tsutsui-s
広島県在住。
複数の会社と店舗施設を経営。自分に出来ないことはない、という自信過剰ぎみの精神力を糧に、新しいものに挑戦し続ける中年です。

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

未分類 (1)
季節 (18)
プライベート (67)
震災と復興 (5)
ブログについて (9)
モノローグ (130)
バイク (63)
エッセイ (35)
仕事 (16)
趣味 (4)
妻の闘病記 (11)
政治・経済 (11)
家族 (5)
禁煙物語 (7)
入院日誌 (13)
自然災害 (1)
スポーツ (4)
カープ (5)

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。