topimage

2017-10

スポンサーサイト - --.--.-- --

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

【苦闘の1カ月】 (11)  「結」 退院  - 2012.08.20 Mon

 昨日、日曜日私は朝起きて仕事に行こうかどうか迷っていた。
やらなくてはならない仕事が山積していることもわかっていて、日曜日は外来者や電話も少ないことから、
デスクワークが最もはかどることから、大抵土・日は事務所での仕事の予定にしていた。
しかし、あっさりと「今日は休もう」と決めた。かといって何も予定はないが、一日家に居ようと決めた。
一日中下着姿のまま、昼寝をしたり、家内とテレビを見たり、本を読んだり、家内と話をしたりして
過ごした。これが割りきって出来たのは、ある意味今回東京で受けたセミナーの成果でもある。
「重要事項を優先する」、この本当の意味は何なのか?自分の未来に対して大切なのは何なのか?
やらなくてはならないことが山積しているが、それらの全てが本当に重要なのか?
そう考えると雑用が随分とあり、省けるものも、人に任せられることも随分とあることに気がつく。

 夫婦水入らずで一日家でゴロゴロと過ごす。これぞ無駄なことの極みのようではあるが、
「時間を共有する」という意味において、場合によっては重要事項ともいえるのだ。

 ごくわずかなこのブログの読者の一人である家内が、一昨日書いた「セミナー in 東京(1)」を読んで
これもまた連載するのか?と思ったのであろう、昨日私にこんな質問をした。
「ところで、【苦闘の1カ月】はもうあれで完結したん?」と唐突に言われ、いったい何のことを言って
いるのだろうか?と一瞬とまどった。「(シャンプー)で終わったん」と言われ、はぁはぁブログのことか、
と気づき、「う~ん、まぁ一様、快復したところまで書いたけぇ~いいかなと思って・・・」というと、
「でも、To Be Continued で終わっとるよ」と!「えっ!それはヤバイ!」とだけ答え、続きを書く
ことは確約しなかった。

 小説には起承転結があるものだが、小説でもなんでもないブログにおいては、そんなこと何も意識は
していなかった。ただ、To Be Continued はまずい(笑
と、いうわけで、起承転結の「結」として以下に記すこととしました。


*****************************************************************************

 3月2日の私のスマートフォンの画像には、家内が歩行補助具で病院の廊下を歩く姿が記録されていた。
やっと人の手を借りずに自らの力で歩くことができるようになった。
と、いっても自分の2本足では立つことも不可能だが・・。私たちの筋力というのは、日常生活を送って
いることで知らぬ間に鍛えられ、いつでも歩いたり走ったりできるように保たれていることを実感した。
僅か、1週間寝込んだだけで、筋力は衰え立つことすら出来ないのだ。
そのため、この日よりリハビリを兼ねて、補助具を使って歩く練習を始めることとなる。

 そして、この日から病院食も取るようになり、体力は日に日に快復していった。
薬や点滴の内容も減ったことから、日ごとの詳細のメモもこの日以降書き記していない。
私のシステム手帳には病院へ行った時間と帰った時間のみが記されている。
それでも欠かすことなく毎日病院通いが続いているが、途中仕事も入れるようになっていった。
精神的にも随分と楽になり、症状として残っている視神経の運動機能回復を願うだけとなった。

 入院患者にとっては、ある程度の苦痛から解放されると暇を持て余し、それが苦痛にもなってくる。
そうした時、雑誌や本などを読んで過ごすのだろうが、家内の場合視神経の機能障害があるため、
文字を読むことは困難なのである。テレビなどの映像は何となく見ながら音声で全体を理解できるため、
テレビを見ることが多かったが、時間帯によってはつまらない番組も多い。
そこで、DVDプレーヤーを用意して、レンタルビデオを借りてくることとした。
アメリカのテレビドラマシリーズなら数十話あるので暇を持て余すことはない、と思ったからだ。

 しかし、映像も見すぎるとやはり目が疲れるらしく、快復の妨げになるようで、時間を制限しつつ
見るように心がけた。私が居る間は、車いすで病院の屋上の庭園に連れて行ったり、1階のカフェへ
連れていったり、売店へ行ったりと、限られた場所ではあるが出来るだけ気晴らしになるように務めた。

 歩行も自分で出来るようになると外出許可を申し出たが、これはきっぱりと断られた。
歩行が出来るといっても、ちょっとした距離でも手摺を持ってのつたい歩きなので当然といえば当然。
まして、治療途中にある身で病院が外出許可など出すわけがない。

 ところが、私が昼間仕事で抜けて病院へ戻った時などに、買った覚えのないものがあったりする。
「誰かお見舞いに来た?」と聞くと首を横に振る。「これは何?」と聞くと、自分で買ったという。
「これ、売店には売ってないよね?」と聞くと、Sデパートへ行ったという!
驚いて「外出許可出てないじゃろ!」というと、出てない、バレないから大丈夫、と平然という。
更に「行きは良かったけれど、帰りはしんどくて帰れんかと思った」という。
絶対に外出してはダメだ、と言ったが、その後も元気になるごとにこの非行は続いた。
ある時は、私が病室に入った時姿が見えないので看護師に「家内は検査か何かですかね?」と尋ねたら、
「いえ、検査も何もありません、奥さん・・・最近、時々居なくなるんですよ・・」と言った。
どうやら家内の逃亡は病院も把握しているようだったが、1時間もすれば戻ってくるので、
それほどお咎めはなかったようだ。

 話は前後するが、リハビリに入ってから私が勝手に決めていた「面会謝絶」を解除した。
両親や妹、会社の従業員や関係者など沢山の方がお見舞いに来てくれた。
それと、部屋は足の踏み場もないくらい大量の生花で溢れた。
家内が花が好きだから、という理由もあるが、もうひとつ大きな理由がある。
それは家内の「見栄」だ。どの病室よりも花でいっぱいにして、お見舞いの人や先生や看護師さんから
「すごい!」と言われたいのだ。(家内からすれば、大いに反論はあるかもしれないが)
そのため、わざわざ自分で会社からの花輪の段取りを娘に頼むのである。
幸い当社は関連会社が多いから、その数は半端じゃない。
花畑のような病室は、誰もが感激する別世界になるのだ。

 そんなこんなで、苦しい入院生活も元気になっていくと楽しみを考える場所になっていった。
人と話し、ドラマを見て、友人とコーヒータイムをとり、デパートへ買い物へ行く。
頑張ったご褒美としてそれもいいだろうと、私は思っている。
出来る限りのことをしても、病室のベッドが自分の寝床であることは変わらない。
本当に喜べる日は、この部屋の荷物を持って出て我が家に帰る時だ。

 3月16日、それが叶った。
荷物を車に積み込み、お世話になった先生、看護師さんに挨拶をして病院を出た。
私たちは幸せだと思った。なかなか退院できない多くの人、あるいは退院そのものできない人達が
多くこの建物内にはまだ居る。
入院の時点で、誰もが退院の保障はもらえない、いや考えないだろう。
この病が治るのかどうか?悪くなっていくのかどうか?明日はどうなのか?病気そのもののことで
頭の中はいっぱいで、退院のことなんて考える余裕はない。
「退院」という期待は「改善」という経過があって初めて生まれる希望だ。
100万人に一人という稀な難病を、正確に診断し迅速で適切な対応をしてくれた先生方と看護師さんに
感謝の気持ちでいっぱいだった。

END

******************************************************************************

と、いうことで「結」とします。
闘病記というのは元来本人が書くものと思います。苦しい、痛い、といったものは本人しか理解できない
感覚で他人が表現すると、それは微妙に異なるものとなってしまいます。
だから、あえて「闘病記」というタイトルは避けました。
内容も殆んどが、「私」の視点に立った見方、感じ方で書いてきました。
よって「とてもよくできた夫」となっています(笑

退院後、「もし僕が入院したら、同じように介護する?」と質問したところ、以下のような返事だった。
「あなたは大きいし、私は小さく力がなしい、私よりプロの介護師さんを雇った方がいいかもね」

???
スポンサーサイト

【苦闘の1カ月】 (10) シャンプー - 2012.07.12 Thu

こうして回想しつつブログを書いていて、あることに気がついた。
この1週間の記録に、登場人物が殆んどいないということ、殆んどが私自身の感想や行動についての
記録であるということ。
家内は1週間、殆んど動くことも話すこともできず寝ているだけだった。
だから、私自身の行動記録がストーリーの根幹になってしまう。
そして、登場人物が居ない理由は、私が全ての人を面会謝絶と決めて誰も病院へ来させなかったためだ。
家内の両親でさえ、心配をして一日も早く娘に会いたいと懇願するのを私は固く断った。
残酷とも思えたが、それが家内にとって一番良いことだと思ったからだ。
どんな仲の良い親友だろうと、身内だろうと、苦しい時には誰にも会いたくない、そう思うからだ。
だから、全ての人に説明をして面会を断った。(それでも約束を破った人はいたが・・・)

【3月1日】
少しだけ食事ができるようになったことから、毎朝病院の売店で出来立てのパンを買うことが日課になった。
7:20病室に到着。少し元気そうだ。
パンを1/4食べて、桃缶1/2と伊予柑を1/3食べた。
私は昔から食事をしている姿、というのが好きだった。
家内や子供、そして今は孫も含めて、一緒に食事をするということではなくて、食事をしている姿そのものが
とても好きだ。「生きている」と感じさせるその行為が、なんとも心安らぐ。
次に好きなのは「寝ている姿」だ。やはり生きている証のようで心安らぐ。
裏を返せば、食べている、寝ている、というのはつまり黙っている、喋っていないということで、
どちらかというと寡黙で無口な私の個人的な好みなのかもしれない。

今日でまる一週間、家内はずっとベッドの中に居る。
身体はタオルで拭いてやり、シャンプーはできないのでムース状のドライシャンプーで洗っていた。
しかし、さすがにドライシャンプーでは頭はすっきりしない。
そこで今日は入院後初となるシャンプーをすることとなった。
そしてシャンプーができる理由がもう一つある。
あの免疫グロブリン点滴1クールが昨日で終了したのだ。
煩わしい点滴がなくなり身体が自由になったのだ。

少し年配の優しい看護師さんが車いすを持ってきた。
家内を車いすに乗せて病室を出ようとしたので私も後をついていこうとしたら看護師さんが、
「ご主人はいいですよ、病室で待っててください。それともついて行きたい?」とにっこり笑って言った。
「いえ、わかりました、お願いします」と私は答えた。
そのあと看護師さんは何やら家内の耳元で喋っていたようだ。
最近は家内も少し話すことができることから、私が居ない時にはもっぱら私の話題で盛り上がるらしい。
早朝から夜遅くまで、毎日こうして来ているとさすがに目立つらしく、看護師さんの中では
いろいろな憶測を含めて話題にことかかないようだ。
仕事を休めることから、サラリーマンじゃなくて無職か?社長か?・・・みたいな(笑

シャンプーが済んで病室に戻ってきた。
どうやらすっきりしたらしくて、「にぎり寿司が食べたい」と、お昼の食事の要望を言ってきた。
幸い、この病院は町の中心部に位置することから、何でも手に入る。
私はにぎり寿司を買うためデパ地下へと向かった。
食事をすること、シャンプーをすること、日常的で当たり前のことがこんなに嬉しいと思えるのは、
共に苦しんで頑張ってきたからだろう。
まだまだ気は抜けないけれども、朝日が差し込んできた部屋のように、ぱっと心も明るくなってきた。

*** To Be Continued                       

【苦闘の1カ月】 (9) 回復の兆し - 2012.06.28 Thu

【6日目】2月29日(水曜日)

今年は4年ぶりのうるう年である。うるう年は4年ごとにやってくるので、4年ぶりという
言いかたはおかしいのかもしれないが、実は4年目であってもうるう年のない年がある。
それは地球の公転が365日プラス0.2422日ということで僅かに1/4日に満たないため
約100年に一度それを修正するためうるう年を飛ばさなくてはならない。
その、次のうるう年のないうるう年?というのは2100年ということになり、当然私は
この世にはいない。

そんなことはどうでも良い。兎に角今年は1日多い。そのことが得になるのか損になるのかは
わからないが、2月29日に何をしていたか?記憶にとどめるには覚えやすい日にちではある。

車が少し混んでいたことと、昨日桃を食べたことで少し安心したこともあって少しゆっくり
出発したため、病院へ到着したのは7:40分だった。
いつものように、保安室の横の出入り口より入り、いつものように中央病棟へと向かう。
広い通路を通って、中央あたりで右の通路へ入るのだが、今日は右に入らず直進して歩いた。
その通路の曲がり角に売店があり、売店内でパンを焼いているのでその香ばしい香りが
この時間にはこのあたりいっぱいに漂っているのである。
病院内といえば、薬品や消毒液の臭いがどこからともなくしてきて、それだけでも気持ちが
沈んでしまうが、ここだけは違っていた。

昨日、桃缶を数切れ食べたので、きっと今日はパンも食べられるだろう・・・そう思って、
いつも曲がる角を直進して売店へと向かったのです。
パンコーナーにはいくつもの種類の焼き立てパンが並んでいました。
「焼き立て」のポップがついているものを全て買って急ぎ足で病室へと向かいました。

「おはよう」病室に入り声をかける。かぼそく「おはよう」と返してくる。
元気がなさそうだ。「調子悪いの?」と尋ねると、頭が痛いという(頭痛レベル3)
深夜はかなり酷く苦しかったらしい。深夜3時にレベル5だったようだ。
ここでよくレベル3とか5とかの数値を出しているが、この数値はいわゆる医学的な数値レベル
ではなく、苦しさ、痛さを1から5までの5段階として患者が医師や看護師に伝える際の目安として
使われるもので、ようするにレベル5は我慢できないほどの痛さ、苦しさということである。
深夜にボルタレンを飲み、早朝にリボトリールとリリカを服用したようだ。
そうしたこともあり、あまり眠れなかったようで少しぐったりとしている。

少し眠るように伝え、私も椅子に座って目を瞑り少し休んだ。
午前9時、免疫グロブリン点滴の準備で看護師が病室に入ってきた。
もう5日目というのに、なんで効かないの?
100万円以上する高額な薬(保険適用される)というのに、なんで効かないの?
悔しさと無力さで気分が落ち込んだ。

いつもは点滴治療を始めると、更に頭痛や嘔吐が酷くなるが今日は少し調子がいいようだ。
昨日食べた桃缶が美味しかったとのことで今日も食べたいという。
小皿にとりだし、小さくナイフでカットして食べさせると約1/2個を食べた。
食欲が出るということは回復の証、とにかく何でもいい、少しでも沢山食べてほしい。

10:30、娘と看護を交代した。
昨日、殆んど仕事ができなかったため、なんとか月末の用事だけでもかたづけるため会社へ戻った。
娘のメモは以下の通りだった。
10:37 どうしてもと言って××さんへTEL
11:20 寝た
12:00 おしっこいっぱい 頭痛レベル4
12:20 違う点滴(ビーフリード)
12:25 ボルタレン、ムコスタ
娘のメモは内容は簡単だが、記録が細かい。
私は大まかに薬名や頭痛のレベル程度の記録しかしていない。
気遣いができて優しい娘だと思う。
以前も家内が入院した際にもべったり付き添いをしていた。
しかし私がこう娘に質問すると・・・
「もし父さんが将来車椅子になったら、車いす押してくれる?」と尋ねたら
「う~ん・・・お金次第じゃね」と(汗
「じゃあ、介護費を奮発したら介護してくれる?」と聞き返すと、
「うん、ええよ。沢山お金出してくれたら、それで介護師さん雇うから」と(笑
まぁ、照れくさいからそう言っているだろうと思うし、私自身も将来介護が必要な身体となっても、
子供の世話になろうとは考えていない。
子供たちには自分の生活を考え、自分の生活を大切にしてほしいと思うから。
しかし、伴侶となるとなかなかそうはいかない。
どちらかが病気になれば、互いに助け合わねばならないだろう。

仕事を終えて病院へ戻ると、顔色は少しよさそうだった。
しかし相変わらず頭痛はレベル3程度。
15:40 やっと今日の免疫グロブリン投与終了 
18:00 血圧、上109下が64と少し低め
19:00頃、少しお腹がすいたとういう。ここで朝買っておいたパンを一口食べた。ほんとに一口
だけだったが、桃缶以外の最初の食べ物だ。
20時頃、頭痛レベルは?と聞くと、指を一本だして、その後5本指を広げて見せた。
レベル5?!と聞き返すと首を振り、また指を1本出してその後5本出した
レベル1.5?と聞くと頷いた。細かいねぇ1か2にしてよ、と言うと笑っていた。
21時過ぎに、パンを1/2食べた。入院以来、6日目最大の食事量だ。
昨日今日と日をおって良くなっていることを実感した。
いつものように22時前、いつもより軽い足取りで病室を後にした。

*** To Be Continued

【苦闘の1カ月】 (8) 誕生日 - 2012.06.24 Sun

家に戻り、またネットで病気について調べる。
フィッシャー症候群というのはごく稀な病気であることから、なかなか多くの情報が
集められない。医学的な情報ではなく、看病している家族の立場からすれば体験者の
生の声が聞きたいものである。ところがそうした情報がとても少ない。
人によって症状の出方もかなり異なるようで、軽度の人は気付かないうちに完治する
こともあるようだ。また、一般の病院では症例が殆どないことから見過ごされるケース
も多いようで、症状が悪化してから精密検査して病名が決定することもあるようだ。
そうした意味では、今回とても幸運だったと思う。各病院の先生の的確な判断により
当日入院し翌日から免疫治療が開始された。このスピードの速さは稀なケースだろうと
思われる。それぞれの病院の先生方に感謝の気持ちでいっぱいになった。

【5日目】2月28日(火曜日)
ネットで情報収集したあと、入浴して床についた。既に今日も深夜1時を回っている。
もう既に日付が変わっている・・・・あっ、今日は私の誕生日だ!ベッドの中で一人
迎える誕生日。しかし、そのことはあまり寂しさも感じない。
誕生日は何故か一人のことが多い記憶がある。もちろん今は子供たちがプレゼントを
買って祝ってくれることが多いのだが、昔から家内が居ないことが多い気がする。
初めて家内に出会った年も一人だったし、確かその翌年も一人だった。結婚後も何かと
予定があったり出張だったりして一人のことが多かった気がする。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

記憶を更に遡ると、やはり誕生日は一人のことが多かった気がする。島育ちの私にとって
友達の存在はある意味兄弟のようなものだった。幼稚園から高校生まで殆ど同じ顔ぶれで
過ごすある意味特殊な環境がそう思わせるのかもしれない。だから誕生日ともなれば、家
に集まり騒いで遊ぶのが慣習になっていた。幼少期、私もそうしていた記憶がある。
しかし、中学生にもなると照れくささもあり誕生会を開くのは一部の人たちになってくる。

私の友人は男女とも何故か2月生まれが多かった。そして・・初恋のKさんも2月生まれ
でKさんの友達でもあり私の友達でもあるMさんも2月生まれだった。だから2月は誕生
会が多い。初恋っていっても単なる方想いである。Kさんからは私のことは疎まれていた。
だからKさんとは一度も話をしたこともなく、ただ遠くから眺めているだけだった。
そんな中学2年生の2月、Mさんから誕生会の誘いがあった。私がKさんと話をする機会
が出来ればとの思いからである。誕生会には男女十数名が集まった。もちろんKさんも
その中の一人だ。しかし、内向的で寡黙な少年(私)は話しをすることすら、傍に行くこと
すらできない。どことなくKさんも私を避けているように思えた。
そんな様子を見てMさんは私に「S君(私)も今年は誕生会したら?私がKさん連れて
行くから」と言ってきた。

私が主役なら話しが出来るかもしれない・・・そんなことを考えながら、数日後母に、
「今年は誕生会する」とぼそっと呟いた。母は「ええねぇ、準備ちゃんとするから」と
言った。しかし日が押し迫ってくると私は迷った。そんなある日Mさんが「誕生日会
どうするん?」と聞いてきた。私は「せん」と一言答えた。
そして迎えた一人の誕生日、もちろん家族は居るのだが私は一人部屋に籠ってベッドに
寝転がり天井を見つめていた。そう今と同じように・・・
これでいいんだ、誘って断られる辛さに比べれば、一人でこうして天井を見つめている
辛さは比べるに値しない。そう思った。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

そんな記憶の旅をしている間に眠ってしまった。
5時半、目覚ましの音に驚いて目が覚める。いつも思う、もう少し驚かさずに起こしてく
れる目覚ましはないのか?と。目覚ましはきっと体に、特に心臓に悪いだろうなと思う。
いつもように目覚めのコーヒーを飲むが、早朝のコーヒーはとても美味しいといつも思う。
今日は少しでも家内の容態が改善していて欲しい。毎日そう願いながら病院へと車を走ら
せる。

早朝の病院は人気がなく静かだ。通常の玄関口はクローズされているので、警備員室横の
通用口から入る。早朝から開いている売店では毎日パンを焼いていて、ちょうどその傍を
通ることから香ばしい香りが漂っている。元気になったら出来たてパンを買って行って
やろう。その日が来ることが待ち遠しかった。

病室に入ると目覚めていて少し元気そうに見えた。「誕生日おめでとう、ごめんね何も
できずに・・・」そう呟いた。
「桃、食べる?」と聞くと、食べると言うので、早速買ってきた白桃の缶詰めを皿に
取りだし小さく切った。小さな一切れを口に入れてやると「美味しい・・・」と言った。
食べ物を口にしたのは5日ぶりだ。ゆっくりと3切れほど食べた。とても嬉しかった、
私にとって桃を食べてくれたことが一番の誕生日プレゼントだった。

今朝は頭痛が軽かったのでボルタレンは飲まず、リポトリールを服用した。
9:30
また、免疫グロブリン点滴が開始される。酸素飽和度は97%、正常だ。
今日はどうにか苦しくないように・・・そればかりを祈った。
11:00
やはり点滴を開始すると頭痛が酷くなってきたので、ボルタレンを飲む。
T先生が回診に来て「昨日の骨髄穿刺での検査結果で、炎症反応がみつかりませんでした、
よって脳炎などの心配はないので安心してください」そう言った。
やはり、頭痛が酷いことで脳炎の検査をしたのだ。私が脳幹脳炎の疑いを示唆したからか
どうかはわからないが、いずれにしても検査をしていただき、結果としてその疑いがない
ことがわかりとても安心した。

月末も近いことがあり、ここ数日間会社に出ていないことから、付き添いを娘と交代して
私は仕事の処理のため一旦会社へと行った。
入院してから、私は病院での日々の出来事、家内の容態、薬の時間などを記録するために
小さなノートを買って記録していた。それを娘に渡し、何かあったら書くように告げた。
<<娘の記録>>
12:10 暑い、少し気分が悪い
12:20 頭痛→マッサージで少し楽になった
12:40 寝た
13:10 頭痛、暑い・寒いを繰り返す


娘から、少し調子が悪いみたいだとの連絡があり、直ぐに病院へ戻る。
自律神経の機能低下があるのか体温調整ができないようで、急に暑くなったかと思えば、
悪寒に襲われ震えたりする。しかし見方によっては、暑い寒いを感じるということは、
回復に向かっている証なのかもしれない。

まだ起き上がることは出来ないが、すこしずつ会話も出来るようになり、体を動かすこと
も出来るようになってきたので、身体を拭いて着替えをさせた。
しかし未だに激しい頭痛が襲うため、昨日効果が高かった点鼻薬を処方してほしいと頼ん
だが何故か出してくれない。
夕方、その変わりかどうかわからないが、リボトリール錠に加えリリカカプセル75mgが
追加された。精神安定剤のようである。頭痛の緩和になるようだが・・・

毎日長時間の介護と看護をしているが、肉体的にはそれほど辛くは感じない。
しかし精神的には結構辛いものがある。痛い、苦しいと訴えている家内を目の前にしても
何もそれを和らげることはできない無力さがとても悔しい。精神的苦痛はある程度分け
合うことは出来るが、肉体的苦痛は分け合うことはできない。これだけ医療技術が発達
しているのに、何故痛みを取り除くことができないのか?なんどもそう思った。
この病気の根本的な原因はわかってはいない。そのため免疫療法がもっとも有効とされて
いるようだ。免疫力を高めることによって治癒していくためには、薬によって治療するの
とは異なり、病との正面きっての戦いをしなくてはならないのかもしれない。
そのためには苦痛は避けられないのかもしれない。

いつものように眠りにつくのを見とどけて病院を後にした。
奇しくも今日は一人じゃない誕生日。忘れられない誕生日かもしれない。

*** To Be Continued

【苦闘の1カ月】 (7) ~桃が食べたい - 2012.06.23 Sat

【4日目】2月27日(月曜日)

朝目覚ましを5時半に仕掛けたものの、5時には目が覚めた。
仕事柄、夜が遅いことも多く寝る時間はどうしても深夜になる習慣がついてしまっている。
よって、朝は少し遅めの起床なため、5時起きはかなりきついものがある。
しかし、朝一番に病院に入るためには6時半には家を出なくてはならない。
通常は面会できない早朝だが、警備員さんや看護師さんにも顔を覚えられたのか、
朝7時には病院内へおとがめなしに入れるようになった。

病室に入ると暗幕のカーテンが引かれていて真っ暗だった。
声を掛けるとうなずくものの何か苦しそうである。
容態は昨日よりも悪そうに感じた。
目を開けることもできないし、当然歩行はできないし、起き上がることさえできない。
運動神経がさらに麻痺しているのか?
免疫グロブリン投与も今日で4日目というのに、なぜ日に日に容態が悪くなるのか?
そのことが不安であると同時に、無力な自分がとても悔しかった。

7:30
激しい嘔吐にみまわれナースコールをする。
直ぐに吐き気止めの注射をしてもらった。
丸3日間、少量の水以外ほぼ何も口にしていないのに何故嘔吐が続くのか?
頭痛もレベル5であることからボルタレンを服用した。

9:00 
またまた激しい嘔吐に苦しむ。
胃の中にはなにもないはずなのに、胃液が50cc絞り出されるように出た。

9:40
本日の免疫グロブリン投与開始する。
この点滴は約10時間かかる、しかも点滴が始まると頭痛も酷くなるようだ。
なんとか今日も乗り切ってほしい・・・そんな思いが募る

11:00
予測した通り、点滴開始から頭痛がひどくなってきた。
ボルタレンを飲んで時間があまり経過していないため鎮痛剤は飲めない。
何か対策はないのか?を看護師さんを通じて先生に聞いてもらうことにした。
効果があるかどうかは分からないけれども、ということで鎮痛用の点鼻薬を頂いた。
これがかなり効果的で頭痛レベルが一気に2まで下がった。

15:30
T先生が回診に来られた。いつものように目の検査、手足の運動神経の検査を行う。
T先生にも容体が悪化していることはわかっているようだった。
しかし、当初は免疫グロブリン大量投与を開始すると、次第に回復してくると言っていたはず。

T先生は念のために骨髄を検査してみますと言い、直ぐに穿刺を行う準備にかかった。
私は病室から出された。
 昨日、頭痛がひどいからビッカースタッフ脳幹脳炎の可能性はないのか?
 との質問を浴びせたことでひょっとしたら先生もその可能性を考えたのかもしれない。
 いや、素人の私の意見などに左右されることはないだろう・・・
病室の外でそんなことを思いつつ待っていた

殆んど目が開けられないため、日中もカーテンをして部屋を暗くしておいた。
その方が落ち着くようだった。
私は家内の身の回りの世話を一日中していた。
寝たきりなので背中や腰が痛くなるためマッサージをしたり、身体を拭いたり、歯磨きをしたり、
着替えをさせたり、トイレをさせたり・・・と、傍にいれば一日中やることがあった。
看護と介護というのは、そんなに容易くないことを身をもって知った。
しかし、それらが全く苦にならずできることが少し意外でもあった。

18:00
吐き気止めの点滴をする。
肉体的、精神的に苦しい状態であることから、本日よりリボトリール錠(精神安定剤?)が処方された。
この薬が意外と効果があるのか、夜は少し楽になったようだった。
21:00
ボルタレンと胃薬を服用する。
22:00
マイスリー10mg(睡眠薬)を服用する。
一日中、点滴と薬の服用が続くが、それのおかげで生きていられるのだろうと痛感する。
なぜなら、この4日間何も食べていないし、僅かな水分を採っているだけだ。
普通なら生きてはいられない。
食欲というのは、生きる上での最低限の基本原則である。

今まで、何も口にしたがらない家内に私は何度も「何か食べたいものは?」と問い続けてきた。
そして今日も、眠りにつくまえに「何か食べたいものは?」と聞くと
寝言のように「白桃の缶詰めが食べたい」そう言った。
とても嬉しかった。入院して4日目、初めて「食べたい」という言葉を口にした。
睡眠薬が効いたようで家内は眠りについた。
私は、そっと病室を出て、ナースステーションによって挨拶をして病院を後にした。

私はその足で24時間営業のスーパーへと向かった。
白桃の缶詰め・・・どれが美味しいかわからないが、高いものから2種類を買い、その他白桃のゼリーや
白桃入りのデザートなど買いあさった。

*** To Be Continued



【苦闘の1カ月】 (6) - 2012.06.18 Mon

【3日目】2月26日(日曜日)

目覚ましを朝6時にセットして床についてのは深夜1時半。
7時間以上寝なくては疲れの取れない私にとってはとても短い睡眠時間である。
しかし、早朝5時に夢にうなされて目が覚めた。
夢の内容は、仕事上の現場にて水道管が破裂して漏れ出す夢だ。どんな対策を取っても、
次から次へと水漏れが進んで手がつけられなくなり、その水漏れしている配管を直接手で
押さえて止めようとしている夢である。

目覚めて、とても嫌な想像が頭をよぎった。
家内が頭痛を訴えていたことから、水道管破裂の夢が脳内出血へと想像を膨らませてしまったのだ。
不安になり、直ぐに病院へ向かおうかと思ったが、こんな早朝に面会で入れてくれることもないだろうし、
もし何か不測の事態が起きたとしたなら電話があるはずだ、そう思って取りあえずコーヒーを飲んで
目を覚ますことにした。
6時半に家を出発して7時過ぎに病院へと到着した。通常は面会時間は午後からではあるが、
外来は8時から受付なので外来に紛れて病院へ入った。
病室に入ると、家内は昨日よりも更にしんどそうな様子である。
部屋は暗幕がひかれているので真っ暗の状態だった。
少しだけカーテンを開けると即座に「眩しい」と家内は言った。
朝食代わりにプリンなどを勧めるが全く受け付けず、点滴だけが命の絆のようなものだった。
私は昨日と同じく、ただ黙って存在を感じさせないように傍らに座って見守った。
激しい頭痛で苦しいらしく、話すことすら苦痛を感じるようで、ただ目を閉じてじっと耐えているだけである。

病院に居ながら何故日々容体が悪化していくのか?先進医療、先端医療を尽くしてもたかが頭痛さえ
抑えられないのか?悔しくてならなかった。私はネットで頭痛を和らげるマッサージのツボを検索して、
そのツボをマッサージした。ロキソニンが効かないのにマッサージが効くとは思えないが、それでも
わずかでも楽になればとマッサージを続けた。
ずっと同じ姿勢で寝ていることから背中や腰も痛いとのことだったので、背中と腰もマッサージをした。
すると、「気持ちいい」と初めてプラスの言葉を口にした。午後、頭痛が治まらないことから鎮痛剤を
ロキソニンからボルタレンに変更したが、やはり殆ど効果がないようだった。

T先生が回診に見えたので、私は先生になぜ頭痛が止まらないのか尋ねた。
先生の回答は予想通り、免疫グロブリンの副作用だと言ったが、私は副作用の確率を前日調べていた。
嘔吐や頭痛の副作用はいずれも数パーセントで、それらが同時に発症するのは確率的に極めて低いことを
知っていた。しかも、頭痛のレベルは5段階で常に4以上のレベルである。
私は、ビッカースタッフ型脳幹脳炎の可能性はないのか?ということを遠回しに聞いた。
T先生は、その可能性は極めて少ないという、しかし否定はしなかった。
もう少し様子をみましょう、がんばりましょう、そう言った。

よく考えれば今日は日曜日だ。病院内全体に人が少ない気がしたが外来も少ないはずだ。
免疫グロブリン投与の副作用と思われる頭痛がひどく、更に嘔吐もかなり酷い。
何もできない自分が悔しかった。それでも傍にいるだけでも心強いだろうと、一日ベッドサイドで
見守っていた。食事が全くできない家内の前で、食事をするわけにもいかず、寝ている間に少しだけ
パンを食べた。

夜になり、面会終了時刻の8時が近づいてきた。
今日はあえて年配の看護師さんに「付き添いはやはり午後8時までですか?」と尋ねた。
優しい面持ちの看護師さんは、「大丈夫ですよ、奥さんの傍にいてあげてください。ただ帰られるときに
一言声をかけてくださいね」と笑顔で答えてくれた。
朝から夜まで病室に詰めている私の存在は、この頃になると看護師さんのシフトも一順したようで、
殆んどの看護師さんの顔がわかるようになり、逆に私の存在もひそかに話題になりつつあるようだった。
・ご主人、ずっと付き添って仕事は大丈夫なのかしら・・・
・色々と病気のことを調べているようだ・・・・
・奥さんは幸せね・・・(←そう噂になったか定かじゃないが(笑)

睡眠薬が効いたらしく、夜10時頃に家内は眠った。
一安心した私はそっと病室を出て、ナースステーションに寄り
「今日はこれで帰ります、今眠っているので後はよろしくお願いいたします」
そう告げて病院を後にした。


*** To Be Continued

【苦闘の1カ月】 (5) 免疫治療開始 - 2012.06.16 Sat

【2日目】2月25日(土曜日)

朝、病院へと向かう。家内の容体は昨日よりも悪い様子だった。
すでにベニロン-iという点滴を行っていた。これがいわゆる免疫グロブリンである。
5000mgを1日3回点滴し、これを5日間実施するらしい。
その量がどの程度なのか?素人の私にはわからない。
その他、ブドウ糖などの栄養剤の点滴を2本行うので、ほぼ一日中点滴となる。

担当医のT先生を待っていたがなかなか訪れないので、看護師に昨晩気になっていたことを質問した。
「昨夜の血液と骨髄の検査でGQ1bIgG抗体はの上昇は確認されたのですか?」そう聞くと、
少し戸惑った顔をして「血液検査と骨髄検査については検査機関に今朝送りました。検査結果が出るのに
少し日にちを要しますし、今日は土曜日なのでいずれにしても週明けてからの結果待ちとなります」
そう答えた。そりゃそうだ、素人の浅知恵の質問はある意味失礼でもある。
看護師さんだってこの病気の人を扱うことは稀だろうし、この病気がどのような症状でどのような治療が
有効なのか、わからないかもしれない。

看護するにしても救命救急病棟は居場所もなく難しいこともあり、個室への移動を要望していた。
午後から個室の空きが出るということで、そちらに移動することとなった。
新しい病室に移動すると、入れ替わり立ち替わり看護師がやってきて、担当することを告げ挨拶してきた。
点滴治療の副作用なのか、家内の容体は時間を追って悪くなっているように見える。
目を開けることもなく、時折頭痛を訴える。昨日も何も食べていないことから、家内が好きなロールケーキや
シュークリームなど甘いものをいくつか買ってきて少し食べさせた。
「先生が、治療を開始したので明日くらいからは元気になると言っていたから・・・」そう家内は話すが、
とても苦しそうである。私は傍にいてもあえて何も話さず、椅子に腰かけて静かにしているように努めた。
話しかけると、それに答えなくてはならない、それさえしんどい状況がわかっていたから、ただ傍でじっと
座ったまま家内を見守っていた。夜も何も口にすることもなく、水を一日に数口飲んだだけだった。
面会時間は午後8時ということを知っていたが、看護師に「付き添いは何時までできますか?」とあえて尋ねた。
すると予想通り「午後8時までになります」との返事。このまま置いて帰るのはとても心苦しかったが、
午後8時過ぎ病院を後にした。
 
家に戻り、またこの病気についてネットで色々と調べた。人によって症状の出方が異なること、基本的には
完治すること、しかし、ビッカースタッフ型脳幹脳炎の可能性或いは移行する恐れもあること、などいずれに
しても決して甘くみれない病気であることを知る。医師ではない私にできることは、ただ傍にいて見守ることと
身の周りの世話をすることくらいしかできない。それだけでも家内にとっては心強いだろうと考えた。
絶対安静を維持するために、全ての人の面会謝絶を私自身が決定した。
ごく身近な人と家内の両親に入院の事実を知らせたが、とにかく面会には来ないようにとお願いした。
特に両親にとっては、歳をとっても我が子が病気で苦しんでいる時に傍に行けないことは辛かったろうと
思われるが、とにかく今は私に任せて欲しいとお願いして面会を断った。

付添い・面会時間は午後1時~午後8時となっているが、今朝9時に行ってもどういうことはなかった。
明日は早く行こう、そう決めて6時に目覚ましをかけて床についた。
既に深夜1時半、慣れない一人寝は冷たいベッドが更に冷たく感じる。

【苦闘の1カ月】 (4) 長い一日 - 2012.06.15 Fri

こんな大きな病院なのに本当に一般病棟は満床なの?
救命救急病棟でなきゃいけない理由があるんじゃないの?そんなことを思いながら病室へ向かった。

救命救急病棟につくと、私は前室で待たされた。
扉はフットペダルでオープンし、手の消毒をして入らなくてはならない。
あわただしく出入りする患者の家族、そして医師たち。
普通の病棟とは少し異なる空気がそこにはあった。

暫くして、看護師が私を呼びにきて内部へと案内された。
ワンフロアがオープンの救命救急病棟はテレビでよく見るERそのものといった感じだった。
病室はなく、ベッドごとにカーテンで仕切られ、医師や看護師の詰所は中央に配置されそこにも
仕切りはなくオープンである。全ての患者の状態が見渡せるレイアウトだ。

心電図や呼吸器計、血圧計などがつけられ、直ぐに血液採取と骨髄穿刺を行った。
同時に入院の手続きやら治療の同意書にサインなど多くの手続きを行った。
とりあえず入院に必要なものを買いに売店へ行き、タオルや洗面具などを揃えた。
朝から何も食事をしていないこともあり、プリンやケーキなど食べやすそうなものを少し買ってきた。
ぐったりとしている家内にプリンを食べさすが、一口か二口しか食べなかった。
担当医師のT先生が訪れ、
「明日からでも免疫グログリン大量投与という治療を行いたいと思います。多少副作用を伴う治療
ですが、今のところこの病気には最も効果の高い治療方法です。」
と説明を受け、その治療のための同意書にサインするように言われた。
兎に角、今は先生に頼るしかない、そう思った。
家内の容態は時間を追って悪くなるのがみてとれる。
一般病棟ならまだしも、間仕切りのない広いフロアは、色々な患者のうめき声も聞こえる。
重くどんよりした空気でありながら、張りつめた空気も流れている。
面会時間もとっくに過ぎ、看護師から後は大丈夫ですから・・・と帰るよう促される。
一刻も早く一般病棟に移してください、そう看護師にお願いして私は病棟を後にした。

家に戻り、フィッシャー症候群についていろいろと調べた。
ギランバレー症候群の亜型の病気で、眼球麻痺や眼瞼下垂、腱反射消失となどが主な症状で、
家内の症状と全く一致していた。しかし、ギランバレー症候群が年間発症率が10万人に1~2名と非常に
少ないにも関わらず、フィッシャー症候群はそのうちの約5%程度ということで、つまり発症率は
100万人に一人程度というごく稀な病気であるということで、広島市の人口からみても年間1~2名の
発症に過ぎないことから、本当にその病気なの?と疑問を抱いた。
脳のCT検査やMRI検査はある意味消去法の検査であり、疑わしきものを除いていってこの病名が付けら
れたようである。そうした稀な病気であることから、多くの場合病院でも見落されて気がつかぬ間に
病状が悪化することが圧倒的に多いようだった。
特に、眼科の段階では殆どが「目の疲労」のような診断でビタミン剤などが処方されて家に帰されること
が多いようだ。もし、家内がこの病気で間違いないとするなら、M眼科の先生の判断、K病院の若い女医の
K先生の判断、S総合病院の若い女医のT先生の診断結果、いずれも的確で素晴らしいとしか言いようがない。
S総合病院は一般的に紹介状なしでは基本的に受診もできないし、眼科なんて予約を入れても1週間後に
受診できればいいところ。しかし、各病院の先生方の的確な判断と連携でもって、当日入院できたことは
とても幸運だったとしか言いようがない。
それぞれの各先生は、若くともある意味名医と言えるんじゃないだろうか?

明日からの治療内容の承諾書を見ると「免疫グロブリン投与治療」となっていたので、それについても
調べてみた。フィッシャー症候群というのは、自己免疫抗体が自分の運動神経や視神経を攻撃するという
原因不明の特定疾患に指定された難病である。今のところ、血漿交換かこの免疫グロブリン大量投与という
治療が有効な方法とされているようだった。
このグロブリンというのは血液製剤でとても高価(1クール100万円以上する)な点滴らしいこともわかった。
幸い近年厚生労働省の認可が下り医療保険適用となったらしい。しかし、この血液製剤を使うということは、
フィッシャー症候群であるという前提のはずだが、本当にこの病気なのだろうか?私には大きな疑問が残った。
もし、広島市で年間1~2名、県単位でみても数名とするなら、総合病院といえども県内には多くの病院がある
わけで、S総合病院でこの患者を扱う可能性は年間0名もしくは1名いるかどうかのはず。
更にS病院には多くの医師がいるわけで、どう見ても数年の経験しかないだろうと思われる若い女医のT先生が、
この病気を扱うこと事態皆無に等しいのではないか?と確立的には想像される。
私はS総合病院の病気別の症例数についても調べた。脳梗塞や脳腫瘍などは年間多くの症例があるものの、
ギランバレー症候群が平成22年度には8件しかなかった。フィッシャー症候群については想像通り症例件数が
なかった。もしかしたらギランバレー症候群に含んでいるのかもしれないが、8件の中であっても1件あるか
どうかだろう。大手総合病院でさえ、殆ど症例がないことが分かったが、それでもこの病名を付けた根拠は
何だろう?そして、この病気だという前提であるからこそ免疫グロブリン大量投与を実施するのだろうが、
本当に直ぐにこの治療を開始していいのだろうか?素人ながら色々と不安がよぎった。
この病気を決定づける定義の一つとして、ガングリオシドGQ1bIgG抗体の上昇があることを知った。
メモ帳にその難しい名称を記録した。明日、医師にその旨質問するためだ。
深夜まで、この病気についていろいろと調べ不安を抱えたまま床についた。

本当に、長い一日だった・・・
明日からいよいよフィッシャー症候群という難病との闘いだ。

(2月24日 長い一日)

*** To Be Continued

NEW ENTRY «  | BLOG TOP |  » OLD ENTRY

プロフィール

tsutsui-s

Author:tsutsui-s
広島県在住。
複数の会社と店舗施設を経営。自分に出来ないことはない、という自信過剰ぎみの精神力を糧に、新しいものに挑戦し続ける中年です。

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

未分類 (1)
季節 (18)
プライベート (67)
震災と復興 (5)
ブログについて (9)
モノローグ (130)
バイク (63)
エッセイ (35)
仕事 (16)
趣味 (4)
妻の闘病記 (11)
政治・経済 (11)
家族 (5)
禁煙物語 (7)
入院日誌 (13)
自然災害 (1)
スポーツ (4)
カープ (5)

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。